魂とはなんでしょうか。
魂という概念は多くの人が口にすることは多いですが、実際にどんなものなのか正確に説明できる人はいません。
魂という言葉を聞くと多くの人は「体の中に宿っているもの」、「死んだら体から抜け出して“あの世”へ行くもの」
という漠然としたイメージをもっています。
僕も以前はそのように思っていました。そういうものだと信じていました。
しかし、今となってはそのように「肉体に出たり入ったりしている魂と呼ばれているもの」が『本当の私たち』かと聞かれたら断じて違うと言わざるを得ません。
この魂という概念についてお話しするときはとても慎重にならなければなりません。
なぜなら、そのようなもの(魂)を実際に目撃する人が昔からたくさんいるからです。
だから、順を追ってできるだけ丁寧に、僕が理解できている範囲内で説明してみようと思います。
この絵は大げさですが、古の時代からこのような火の玉を見たという目撃談は多々あります。
特に墓場などでの目撃談は昔から怪談話などに何度もでてきます。
ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、東北の震災のとき、津波が来た浜辺や遺体安置所などで、
「火の玉らしきものを見た」と証言する人がたくさんいらっしゃったようです。
安置所で横たわるご遺体から、青白い玉のようなものが抜け出すのを見たという人は少なくありません。
ちなみに僕自身は体から抜け出すものを見たことはありません。
火の玉とは違いますが、俗にオーブと呼ばれるものなら何度かあります。
余談ですが、昔、真夜中に六本木から表参道まで歩こうと思い、どうせなら近道しようとしてよせばいいのに青山霊園を一人で歩いたことがありました。
その時、真夜中なのにやけにウロウロしている人が多いので「あれっ?」と思いましたが、
ひと気のない時間にお供え物を物色するホームレスの人がいると聞いたことがあったので、その時は「そういう類の人か」と思っただけでした。
そして自宅に帰り、部屋の照明を点けたのですが、部屋中に凄い数のオーブが飛びかっておりました。
部屋を埋め尽くすくらい、うじゃうじゃと。笑
「あーあ、連れて帰っちゃったんだな。どうしようかな」
と思った次の瞬間、意識を失いまして……気づいたら朝になっていました。
朝になってそのオーブたちは一つ残らず見えなくなっていました。
彼らは自分で帰ったのか、あるいは僕のガイドが(守護霊など)守ってくれたのかもしれません。
体から火の玉らしきものが抜け出すのを見たり、僕のようなオーブを見たり、
そういう経験があると、それが魂というものに違いないと自然に考えてしまいます。
僕自身、長いあいだそういうものだと思ってきましたが、『奇跡のコース』をはじめとした学びを深めていくにつれ、
それははっきりと違うということを理解するようになりました。
まず、このサイトでくり返し語っているように、
私たちが見ている世界は私たちのマインドによって投影された『幻想の世界』です。
そして、そのマインドは体の中にありません。
「体の外にいる存在が、体の中にいるという夢を見ている」という言い方もできますし、
「私たちが見ているものすべては、マインドの中でつくられた幻想」という言い方もできます。
私たちが見ているこの世界は、自らのマインドの中にあるものの象徴です。
言葉や記号だけが象徴なのではなく、一人ひとりの肉体も、自然も、建物も、この宇宙そのものも、
すべては私たちのマインドの中にあるもの(正確には自我ですが)を形や色にして見せています。
一人ひとりが見ているものは、その人がマインドの奥深くで信じているものです。
それは、その人がマインドの奥深くで、「世界はこうである」と信じた結果です。
あるいは「世界をこう見たい」という願望の結果ともいえます。
受け入れがたいことですが、すべては幻想なのです。
本当は何一つ分離していないのに、全てが分離しているように見せている夢なのです。
自分自身の「こうあってほしい」という観念の結果を見せられているのです。
まず肉体が先にある。
そこに天国から魂がやってきて肉体に宿る。
やがて肉体が古くなる。
その肉体で生きる役割を終え、魂は肉体から離れる。
そしてまた天国に帰る。
この基本的ストーリーは数々の霊能者、あるいは数々の霊界通信によって語られてきたことでもあります。
これは別に嘘でもなんでもなく、実際に彼らにはそう見え、そう感じるのです。
よってスピリチュアルな学びをする人の多くはこの説を信じます。
しかし、この考えは多くの根本的疑問を残すことになります。
「それでは、魂が入る肉体は誰がつくったのか?」
両親がつくったのでしょうか?
確かに肉体的には、物理的にはそうなるでしょう。
では、その両親の肉体は誰がつくったのでしょうか?
そうやってどんどん遡っていって、そもそも最初に人間の肉体をつくったのは誰なのかという疑問が出てきます。
『神』でしょうか?
ではなぜ『神』は肉体をつくったのでしょうか?
『神』が肉体をつくって、そこに魂を送りこんでいるのでしょうか。
なんのために?
永遠に滅びることのない存在が『神』です。
その『神』がいつか滅んでしまう不完全な肉体をなぜつくる必要があるのでしょうか。
『完璧な存在』が、「不完全な存在」をつくりだす目的は何でしょうか。
「私のように完全になってみろ」 神はそう言っているのでしょうか。
わざわざ「不完全な存在」をつくりだして、その不完全な存在に【完全を目指すことの喜び】を経験させているのでしょうか。
ここからは基本的なことなので、絶対にゆずれないポイントです。
『神』が創造できるものは、自らと同じものです。
『神』が創造できるものは、『神』自身の中に在るものです。
仮に『神』が不完全なものを創造できるとします。
だとすれば、はじめから『神』の中に不完全なものがあったことになります。
「神は自らに似せて人間をつくった」
その言葉通りなら、不完全な存在の人間と同じものを『神』も持ち合わせていることになってしまいます。
『神』の中に不完全な要素が存在するなら、『神』もまた完全無欠な存在などとはいえないことになります。
あるいは、『神』はかつては不完全な存在だったけれど、その不完全さを克服して完璧な存在になったのでしょうか?
百歩譲ってそうだったとしても、
すでに完全無欠な存在になっているのなら、
その完全な存在が生み出せるものは、やはり完全な存在なのではないでしょうか。
『神』が私たちと同じ不完全であれば、私たちも当然「不完全」です。
私たちは永遠に完全にはなれないでしょう。だって私たちを生み出した存在が不完全なのですから。
その不完全な存在が私たちに「どうしたら完全になれるか」などど説くこともできないでしょう。
たった一つしかなかった存在ならば、「完全と不完全という二元性もなかった」と考えるのが自然ではないでしょうか。
『神』は最初から完全で今も完全であるか、
『神』は最初から不完全で今も不完全であるか、
真実は二つのうちの一つです。
単純なたとえかもしれませんが、りんごが描かれた絵をコピー機でコピーするとします。
そのときコピー機から出てくるものは、何の絵でしょうか?
バナナの絵でしょうか?
ぶどうの絵でしょうか?
コピーされて出てくるものは、同じりんごの絵ではないでしょうか。
りんごの絵をコピーして、バナナの絵が出てきたらおかしいですよね。
『神』が自らに似せてつくるなら、
『神』が自らをコピーして何かをつくるのであれば、
やはり『神』は、『神』と同じものしか創造できないのではないでしょうか。
不完全な肉体を、完全無欠な『神』が創造するはずはありません。
ならば、滅びゆく不完全な肉体は「最初から実在しない幻想」ということになります。
私たちは「自分たちは不完全である」という夢を見ている『本当は完全な存在』です。
『神』と同じ完全であるために、不完全になることは不可能です。
私たちは一度も『神』から分離せず、本当は今も一体の存在です。
よって、この不完全な世界は一時的な夢の世界にすぎないことになります。
ならば肉体を出たり入ったりしている魂はどうでしょうか?
肉体は幻想だけれど、出たり入ったりしている魂は実在しているのでしょうか?
仮に、体の中を出入りしている魂らしきものが実在の存在だとすれば、
実在の存在が、幻想の世界の、幻想の肉体の中に宿ることは本当に可能でしょうか。
『神』はスピリットです。
そして『神というスピリット』の中に、『神のマインド』があります。
『神』は自らを拡大して、それを『神の子』としました。
こんなふうに考える人もいます。
たった一つの存在であった『神』が、
たった一つの存在であるがゆえに「自分とはいったいどんな存在なのか」と疑問をもつようになった。
よって『神』は、自らと同じ存在を自分の外側に創造した。
鏡に映る自分の姿を見ることで、「自分とは何なのか」を知ることができるように……。
この概念は一見魅力的です。
僕もこの概念を一度は信じたことがあります。
しかし、これもまた二元性の世界で生きている人間が、二元性を基準にして、
自分たちが理解しやすいように考え出した概念にすぎません。
はじめから『たった一つ』の、唯一無二の存在ならば、
【他者】という概念すら初めから存在しないのではないでしょうか。
『神』がもし「自分という存在を二つに分けられる」と信じたのだとすれば、
『神の子』を創造する前から、『神』の中に二元性という概念があったことになります。
また、『神』が自分という存在が何なのかわからなかったとするなら、
『神』は神の子を創造したとき完全ではなかったことになります。
自分のことが何なのかわからない存在を、『完全な存在』と呼んでいいのでしょうか。
『奇跡のコース』の中で、キリストは一貫してこのような考えを「狂気である」と語っています。
今となっては僕もそう思えるようになりました。
時間はかかりましたが。笑
『神』は自らを分離したことは一度もありません。
分離する必要性も、
分離という概念すらなく、
すべてが一つで、
すべてが完全で、
すべてが永遠で、
すべてが自由で、
愛することだけしか知らない存在が、 自らとは真逆である、
すべてがバラバラで、
すべてが不完全で、
すべてが滅ぶことが約束されていて、
さまざまな制限が存在し、
愛することもあれば憎むこともあるこの世界を、いったい何のために創造する必要があるのでしょうか。
『神』は分離したものはつくっていないのです。
形の違い、色の違い、エネルギー(波動)の違い、思想の違い、
あらゆる違いを私たちは知覚しています。
肉体の目で見えるもの、
第三の目(眉間のチャクラ)で見えるもの、
どちらの目で見えるとしても、
【分離して見えているもの】、
【一つひとつが違って見えるもの】、
それらはすべて実在してはいないのです。
「たしかにそう見えている」
だからといって、それが真実とは限らないのです。
よって、一人ひとりの肉体に一つずつ宿っているように見える魂(火の玉、オーブ)も、
私たちのマインドが、
「すべては分離している」という誤った知覚(誤った観念)を持っているがゆえに、
それを自分の外側(幻想の世界)に映し出している【観念の象徴】の一つなのです。
夢の中では真実であっても、あくまでそれは夢の中の真実にすぎません。
ただし、一つの救いがあります。
肉体の目と第三の目、共に「幻想を見ている」、「マインドの象徴を見ている」という点では同じです。
しかし、まったく同じようにマインドの象徴をつくりだしているかといったらそうではありません。
第三の目で見えるものほうが、肉体の目よりも、
『本来の私たち』、『ハイヤーセルフである私たち』をより多く反映しています。
フィジカルマインドに比べたら、ずっと多くの【ハイヤーマインドとしてのものの見方】を反映しています。
見えているもの(火の玉など)は、それぞれ分離して見えています。
しかし、どの火の玉も分離はしていますが、基本的に同じような形に見えています。
人によって形も色も全然違うようには見えていません。目撃者がそれらを形容した証言はほとんど一致しています。
「肉体はまったく違っているように見えるけど、肉体から抜け出した魂は同じに見えた」
このような見え方ができるようになったということは、
その人自身が【分離の夢から醒めるプロセスに入っている】という言い方をしていいのかもしれません。
「私たちの肉体は死んでも実在の私たちは永遠に死なない」という真実。
「私たちはの肉体は一人ひとり違ってみえるけれど、実在の私たちは同じ」という真実。
この二つの真実に目覚め始めている、だからこそ、その『目覚めの象徴』としてそのように見えているともいえるのです。
誤解してほしくないのは、そういった霊的現象が見えなければいけない、見えないと夢から醒めないというわけではありません。
あくまでもそういう現象を見ることがあるのは、個々の資質の向き不向きが影響しているだけで、
見えないから、感じないから、霊的成長していないということじゃありません。
『奇跡のコース』でも念を押されていますが、そういう現象を生涯見ることがなくても霊的成長はできるし、
この幻想世界から脱出して『神』のもとに帰還することは十分に可能です。
こういう現象を目撃すること自体は、あくまでも副産物の一つにすぎません。
ですから見えないからといって気にしないでください。
火の玉やオーブを一度も見なくても、
「すべては一つだった」と悟って、この夢の世界を卒業したマスターはいるのです。
そういう現象そのものは幻想の象徴でしかありません。
だからといって、僕がそういうものを見える人たちを、そういう現象が見えることを軽んじているわけでもありません。
なぜなら、この世界の幻想は、その人自身の視点でつくられた【個人的な幻想】であると同時に、
僕を含めたすべての人によってつくられる【共同幻想】でもあるからです。
すべては一つですから。
僕とあなたは一つです。
すべては一つなのです。
一緒に幻想を見ているのなら、その幻想から抜け出すときもまた一緒なのです。