◾︎ 自我の成り立ち
この世界は【分離】を象徴した世界です。
『神』が私たち『神の子』を創造した際、
私たち『神の子』が間違って「『神』から分離した」と信じた瞬間、この世界は始まりました。
しかし、実際には『神の子』は『神』から分離したことは一度もありません。
一元性の『神』には、二元性の世界を創造する必要性もなく、二元性という概念すら持ち合わせていませんでした。
よってこの世界は『神の子』のマインドの中で見ている【夢の世界】ということになります。
なぜなら、『神』から離れていないのに、『神』がけっしてつくらないものを創造することは不可能だからです。
たとえるなら、母親の胎内にいる赤ん坊が、まだ胎内にいるにもかかわらず、
「自分は母親から離れて一人で生きている」という夢を見ているようなものです。
胎児は、母親なしでは何一つできないのです。
分離を信じた『神の子』のマインドには、
『神』がけっして創らなかった【自我(エゴ、フィジカルマインド)】が生まれました。
その自我は『すべては分離した』というキーワードを元に、すべてのものが分離している宇宙を生み出しました。
しかし、その自我という存在そのものが『神』が創造していない幻想の存在です。
ですから、自我がつくりだせるものは初めから終りまで【幻想】でしかありません。
幻想であるがゆえに、自我はやがて消え去ることは初めから決まっていることになります。
自我は、この世界にあるすべてのものをつくりだしました。
宇宙をつくり、惑星をつくり、肉体をつくり、その肉体の中で(あるいは非物質的な個性を含めて)『神の子』は生きているという嘘をつくりだしました。
そしてこの幻想宇宙には、【時間と空間が実在している】という嘘を私たちに信じ込ませたのです。
自我は、この宇宙で行われるあらゆる分離劇 (対立、別れ) をつくりだしました。
自我は、この宇宙の森羅万象、あらゆる変化をつくりだしました。
自我は、天変地異や戦争というスケールの大きなものから、
日常のささいなイラつきの原因となるほんの小さな出来事まで、
私たちが、怒ったり、嘆いたり、悲しんだり、怖れたり、不安にさせるすべての事象をつくりだしています。
私たち『神の子』は自我を敵に回すことはできません。
なぜなら私たちは自我には絶対に勝てないからです。
自我を憎み、自我を打ち負かそうとすること自体が、自我の策略だからです。
誰かと対立したり、
自分の中で葛藤したり、
そういった反応自体が『本当の私たち』が絶対にしない反応なのです。
そういう反応をするということは、
その葛藤する対象が、現実に存在しているという間違った信念によるものだからです。
よって、私たちがそのような反応をする度に、
自我がつくりだす幻想への私たちの信頼はますます強化され、
幻想から醒める機会を遅らせてしまいます。
自我は巧妙に罠を仕掛けます。
緻密に張りめぐらせたクモの巣のように、私たちの毎日の日常にその罠を仕掛けています。
私たちが自我の存在に気づかぬうちは自我にとっては安泰です。
私たちが自我という存在を理解しはじめるとき、自我はちょっと焦ります。
けれど、私たちが自我に対して「怖い」という感覚を持っているうちは、自我はまだ安心しています。
しかし、私たちが自我が幻想であると信じようとして、
自我がつくりだすものに背を向けて、
実在の存在である『神』と、
本当の自分である『神の子』に本気で意識を向け始めると、自我は焦って逆襲を開始します。
私たちを不安がらせる出来事、
怒りや恨みを抱く出来事、
劣等感や孤独感に苛まれてしまう状況など、
次々にぶつけてきます。
私たちが肉体であることを忘れさせないために、
病気や怪我で肉体を痛めつけます。
同様に肉体であることを意識させるために食欲や性欲を過度に煽ったり、
他人と自分の肉体の違いに目を向けさせ、
違いから来るさまざまな感情(優越感や劣等感など)を起こさせたり、
さまざまな方法で肉体に目を向けさせ、
肉体に執着させて、
私たちがスピリットでありマインドであることを忘れさせます。
私たちは「そうか、自我とはそういうものか。じゃあ、これからは用心しよう」と思うのですが、
自我は肉体の私たちを簡単に手玉にとることができます。
自我の存在に気をつけようと思った数分後には、
自我はすかさず私たちにボールをぶつけて、
私たちを簡単に泣かせたり怒らせたりしてしまうのです。
自我は、私たちが常に【今ここ】に目を向けないように努めます。
なぜなら、私たちがたえず【今ここ】だけに意識を向けるようになると、
自我がつくった【時間の流れ】という概念が無力化してしまうからです。
本当の私たちがいる実在の世界には時間というものはなく、ただひたすらに【今ここ】があるだけです。
よって、私たちが【今ここ】だけに意識を向けるようになると、
私たちは『本来の自分』とつながりやすくなる(思い出しやすくなる)わけです。
だから自我は、たえず過去に目を向けさせ、たえず未来に目を向けさせます。
「【今ここ】にある自分の問題の原因は常に過去にあるんだよ」
と囁いて私たちをたえず後悔させます。
「【今ここ】の自分が不幸せでも、未来にはきっと幸せが待っているよ。だから未来のために努力しよう」と励まして、
【今ここ】にすでに幸せがあることに気づけないようにします。
私たちが過去と未来に意識を向けているあいだ、
私たちは『本当の自分』とのつながりを拒絶しています。
私たちが過去と未来に意識を向けているあいだ、
私たちは『創造主』に背を向けているのです。
自我は未来に目を向けさせることはしますが、
未来を予測可能にすることはけっしてありません。
私たちは、まだ起きると決まっていない未来の出来事に不安を感じ、
その出来事を避けるためにあの手この手で未来予測をし、
起こることのリスクをできるだけ最小限にとどめようと努めます。
しかし自我にとって未来は決して予測可能であっては困るのです。
なぜなら、先に起きることが予測可能になれば、人はこの世界を現実と認識しなくなるからです。
次に起きることが予測可能なのはバーチャルな世界だけです。
肉体の私たちにとっての「現実感」とは、次に何が起きるかわからないという「不安感」です。
だから自我は、時々予測通りの出来事をつくって一時的に安心させることはありますが、
私たちが安心した矢先に、私たちが想像もしなかった出来事をぶつけてくるのです。
近年の災害、気候などがわかりやすい例です。
東北の震災で想定外の津波の高さや、
熊本地震での「これが本震ですから、あとは余震に気をつけましょう」と安心させた矢先に再度本震クラスの地震が起こしたり、
台風がUターンしてもう一度同じコースに戻ってきたり、
専門家ですら想像もできないことが次から次に起きています。
どの分野の、どれだけ有能な専門家でも、
どんな占い師や霊能者が何度予知をしようとも、
自我は、私たちの裏をかき、私たちを驚かせ、狼狽させ、絶望させることができるのです。
私たちが自我の存在に気づき始め、
自我に背を向けて『神の子』である本来の自分に目を向け始めると、
自我は焦って抵抗を強くするのです。
言い方を変えると、自我の抵抗が強くなったと感じる時は、
それが個人的なことであろうと、
地球全体で起きていることであろうと、
夢の中の『神の子』が、より目覚めの方向に向かっている証拠だと言えるのかもしれません。
自我は、私たちが『本当の自分』を思い出すことを怖れています。
『神の子』すべてが『本当の自分』を思い出してしまえば、自らの存在も消えてなくなることに気づいているからです。
しかし自我は自分のつくった幻想世界を維持するために欠かせない構成要員の私たちを愛しているのかといえば、
まったく愛してはいません。
自我にとって『愛』とは相手に要求し、相手から奪うものだと思っています。
だから平然と私たちを傷つけ、苦しめ、最後には殺そうとするのです。
それでも自我は、私たちがこの幻想に執着しやすいように、私たちが求めているものを時々与えてきます。
私たちがこの世界で求めているものは、すべて実在の世界の代用品です。
「変わることのない永遠の安らぎ」
「無制限のパワー」
「たえまない喜び」
「無償の愛」
「すべてが一つという感覚」
これらは実在の世界で私たちが恒久的に味わっているものです。
それがあたりまえの世界で、それ以外のものは存在しない世界にいるのです。
だから私たちはこの夢の中でも同じものを求めるのです。
それについての希求は、私たちの中に眠っている『神』についてのかすかな記憶から来るのです。
しかし、この世界は『神』がつくったものとはまったく正反対につくられた世界ですから、実在の世界と同じものは存在しません。
探しても、探しても、永久に見つかりません。
しかし、自我は「探せばいつか見つかりますよ」と私たちの耳元で囁きます。
だから私たちは安定した生活を求めて必死に働き、
必死に競争し、
ときに他人を傷つけてまで自分の欲しいものを獲得するために時間を費やすのです。
自我は、私たちをたえず不安がらせ、実在の世界にはない物質的価値に目を向けさせます。
財産を築くこと、
名誉を得ること、
高い地位を目指すこと……それらはみな『神』のもとに帰る瞬間、跡形もなく消えてしまう幻影にすぎません。
この夢から醒めるとき、それらはみんな私たち自身がきれいさっぱり忘れてしまうものたちです。
だから、それがわかっていれば過度に執着することはなくなるのですが、
そうなると自我にとってはこの世界の存続を危うくするので、自我は必死になって抵抗を続けます。
私たちのマインドが実在に近づけば近づくほど、私たちが『神』を思い出すスピードは加速していきます。
だから自我は私たちの考えを先回りして、先に先に罠を仕掛けて、私たちを実在から遠ざけようとするのです。
◼︎ 自我とは戦わない
私たちが自我と戦おうとするとき、自我は怯むどころか大喜びします。
私たちはついつい「ポジティブに生きることは日々何かと戦うことだ」と思い込み自我とも戦おうとします。
残念ながら「戦う」という概念自体が自我そのものです。
本当は戦う相手などどこにもいないのです。
すべては自分自身であり、すべては一つです。
けっして分けられない“一つ”です。
だから「戦う」という概念自体が幻想なのです。
どんなにポジティブな気持ちからくるものであっても「戦おう」とするとき自我の術中にはまっているのです。
私たちは望んでいるものを手に入れるためには、「戦うことなく手に入れられる」ってことを学ばなくてはならないのです。
この幻想の世界が存続しているのは、私たちがこの世界の存在を信じ続けているからです。
私たちが夢の世界で生きている理由は、
自我がつくったものを現実と信じ、現実として反応し続けているからです。
私たちが『神』からの分離を信じ、
私たちが『神』からいつか罰せられると信じ、
『神』を恐れ、『神』を思い出すことを怖れてしまったがゆえに、私たちは目を開けて真実を見ることを遅らせているのです。
自我は、私たち自身の隠された防衛本能そのものなのです。
私たちは無意識に自我を維持することで、本当の自分に戻ることを遅らせているのです。
『神』は愛することしか知りません。
「愛さない」という概念自体を知りません。
『神』は永遠なるものしか創造できません。
変化したり、滅んだりすることがどんなものかを知りません。
『神』は罰するとはどんなことかを知りません。
そんな必要性を考えるわけはありません。全ての神の子は神の延長した神ご自身です。
私たち『神の子』はずっとずっと長いあいだ自我に騙され続けてきました。
しかし、自我の終焉、つまりこの幻想の終る未来はすでに存在しています。
(なぜ自我が終焉する未来がすでにあるのかについては、別のテーマ【時間講座】で詳細に説明しています)
肉体の私たちがやるべきことは、
その自我の終焉を実現することではなく、
すでに決まっている自我の終焉をできるだけ早めることです。
時間の流れを縮めることです。
そのための一つの方法が『ゆるし』です。
強力な方法です。