【病気と死⑩】病気は愛を学ぶとき


 

神は“愛さない”ということができません。

 

神と神自身を延長した神の子しか存在しないのですから愛さないという選択は存在しないのでしょう。

 

 

 

神は幻想をつくりません。

宇宙も肉体も分離を前提とした世界を創ることはありません。

 

しかしそれが幻影であっても神はそれをも愛するでしょう。

 

神はスピリットとしての私たちを愛すると同時に、

私たちが分離の象徴としてつくりだした肉体をも愛するでしょう。

 

 

神はその誤った創造に加担していませんし、

 

その誤りを見ることもありませんが、

 

“何かを愛さない” という概念を持たないので必ず神は愛するのです。

 

 

 

それならば私たちもまた自分の肉体を愛さなくてはならないでしょう。

 

大切にしなくていけないでしょう。

 

大切にするということは肉体に執着するという意味とは違います。

 

病んでいる肉体は、自分のマインドの中にあるものをマインドの外側へ象徴的に映し出しています。

 

 

 

私たちは肉体の外側から、

 

『自分という存在はこういう存在だ』

 

と信じた姿をつくりだしたのです。

 

 

それは自分が自分を完全に愛せてはいないという象徴です。

 

ならば自分がつくりだしたその象徴を責めることなく、

 

無視をすることなく、

 

愛をもって労わる必要があるでしょう。

 

 

 

 

“愛されるに値しない存在だ”

 

 

 

“自分は愛とは違う存在だ”

 

 

 

このレベルではないレベルで、そういう信念から生み出したものを愛でもって訂正するのです。

 

 

 

 

僕も疲れることはあります。

 

酷く疲れて、それが何日も続くこともあります。

 

 

 

病気もしてきました。

 

いろんなことをゆるし続けて、ずっと治らなかった病気が治ったこともあります。

 

いろんなことをゆるし続けたのに、簡単に治りそうな風邪をしょっちゅう引いたりもします。

 

 

 

どうしょうもなく疲れるとき、

 

病がなかなか治らぬとき、

 

その理由を神やキリストに尋ねたとき、こんな声が聴こえてきました。

 

 

 

『愛を忘れているからだ』

 

 

 

私たちが病気になるときは愛を忘れているときです。

 

自分自身への愛を忘れているとき、

 

神から自分が愛されていることが信じられないとき、

 

神のように人を愛せず自我のままに求めることを愛だと信じているとき、

 

私たちは疲労し、

 

私たちは病気になるのでしょう。

 

 

 

神は無条件で自分を愛してくれています。

 

だから自分も神を無条件で愛するしかありません。

 

 

 

神は無条件で自分を愛してくれています。

 

だったら自分のことも、誰かのことも、無条件で愛するしかありません。

 

 

 

すぐには無理です。

 

一生無理かもしれません。

 

でも愛を忘れて苦しんでいるのなら、愛を思い出すしか方法はないでしょう。

 

 

 

焦ることはありません。

 

「そうしよう」とか、

 

「そうしたい」と気づくだけで昨日の自分とは少し違っているのです。

 

 

 

大切なことはテクニックではありません。

 

その意欲があるのかどうか、

 

その意欲を持ち続けることができるかどうかです。

 

 

 

痛みを感じながら同時に安らぎを感じることはできません。

 

逆に心から安らいでいるときは痛みは消えています。

 

安らぎの感覚は本当の自分からやってきます。

 

痛みの感覚は自我からやってきます。

 

 

 

心から安らいでいるときは神に近づくときです。

 

痛みを感じながら神を思い出すことはできません。

 

 

しかし、痛みを感じているときこそ神を求めるべきです。

 

神を思い出すことが困難な状況であるときほど神を必要とすべきです。

 

 

 

 

 

以前、僕の身にこんなことが起きました。

 

自宅のトイレで用を足そうと思ったら突然強い腹痛に襲われそのまま床に倒れてしまいました。

 

全身汗でびっしょりになり、床に水溜りができるほどでした。

 

そのとき自宅には僕一人だったので助けを呼ぶこともできません。

 

 

 

僕は見えない存在に助けを求めました。

 

守護霊に助けを求めました。

 

しかし、痛みは治りません。

 

 

 

大天使の名を呼びました。

 

しかし、痛みは治りません。

 

 

 

ならばとイエス・キリストの名を呼びました。

 

その昔、未浄化霊に憑依されて苦しいときにイエスの名を呼ぶとピタッと現象が治ったことが何度かあったからです。

 

 

 

しかし、今度は何も起きませんでした。

痛みは消えてはくれないのです。

 

 

 

「あー、これでもダメなのか」

 

そう諦めかけたとき、

ふと神の名を呼んで助けを求めたのです。

 

 

 

ピタリと痛みが消えました。

 

一瞬です。

一瞬の出来事です。

 

神に助けを求めた次の瞬間には嘘のように痛みは消えてしまったのです。

 

 

 

僕はふらーっと立ち上がり、

布団まで行ってゴロンと横になりました。

 

 

感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

神に感謝の言葉を送ったら、即座にハッキリとこんな言葉が返ってきたのです。

 

 

 

『力強く歩いていくんだよ』

 

 

 

 

 

感謝しかありません。 

 

 

後でこのときのことを振り返ってみたとき、あることに気づきました。

 

 

「どうして最初に神の名を呼ばなかったのだろう?」と。

 

 

守護霊に助けを求め、

 

天使に助けを求め、

 

イエスに助けを求め、

 

なぜ『神』が最後になったのだろう、と。

 

 

 

これは僕自身が、

 

何を信頼し、

 

何を怖れているのか、

 

それを知ることができる象徴的な出来事です。

 

 

 

いかに自分が無意識レベルで神を信頼できずにいたか、

 

いかに自分が神を怖れてきたのか、

 

この出来事は実にわかりやすく教えてくれたのです。

 

 

 

 

真っ先に神の名を呼べばいいのです。

 

だって僕もあなたも神に創造されたのですから。

 

 

 

自分を創造した源をなぜ信頼しないのでしょうか。

 

なぜ何も返ってこないと思っていたのでしょうか。

 

 

 

僕が神に助けを求め、そのとき神は僕の肉体に物理的に何かをしたわけではありません。

 

神が癒しのエネルギーのようなものを僕の肉体に送ってくれたわけではありません。

 

 

 

時間にしてほんの一瞬ですが、

 

僕が『神の愛』を信じられないという夢を一瞬捨てて、

 

『神の愛』を完全に信頼するという夢を選べたために起きた奇跡だったのです。

 

 

 

それだけ必死だったのでしょうね(苦笑)

 

 

 

 

『神』と『愛』は常にイコールです。

 

神を信頼しないことは、愛を蔑ろにするのと同じです。

 

自分を愛することは神を愛することとイコールです。

 

 

 

神を愛せるけれど自分のことは愛せないと言う人がいるなら、その人は嘘つきです。

 

 

自分のことは愛せるけれど神のことは愛せないと言う人がいるなら、その人も嘘つきです。

 

 

どちらの人も愛するとは何なのか分からなくなっているだけです。

 

 

 

 

だから、ちょっとずつ、ちょっとずつ、

 

愛とは何か思い出していくのです。

 

 

 

病気を経験するときは、

 

愛を学ぶことへのスタートです。

 

 

ここから始まるのです。

 

ここから学びが始まるのです。

 

 

あなたは紛れもなく、

 

神に深く深く愛されているのですから。