【病気と死④】死の手段


 

レッスンの途中に不意に死を迎えることは絶対にありません。

 

病気や事故で倒れ、どんなに治療を尽くしても亡くなってしまう時は、不幸なアクシデントではありません。

この人生において可能なレッスンがもう残っていない状態なのです。

 

 

 

幸も不幸もなく死は一つの卒業式です。

それについてはどんな亡くなり方をしたとしても同じです。

 

僕は誰かが亡くなったとき、

「よくやり抜きましたね。本当にお疲れ様でした。またいつかお会いしましょう」

というような言葉を心の中でかけるようにしています。

 

その人は、やりきったのです。

 

肉体的な視点で見てしまうと、故人も、遺された人も、やり残したことがたくさんあるように感じることがあるでしょう。

 

しかし、そう感じるのは肉体意識を基準にしているためです。

たとえ赤ん坊で亡くなってしまう場合でも、今生に生まれてきた目的は(レッスンをやり遂げること)完遂したことになります。

 

 

 

 

この世を卒業するとき、

つまりもう今ここの人生において可能なレッスンがなくなったなら肉体から離れる手段が必要になります。

 

 

肉体を死なせるには、何らかの方法を使わなければならなくなります。

 

 

理想的には痛みや苦しみを伴わない自然死と呼ばれるような亡くなり方がベストかもしれません。

現在そういう死を経験できる人はほとんど高齢者であり、一部の人です。

 

 

若い年齢でレッスンをやり終えてしまった場合、自然死とは違った手段で肉体を脇に置く必要が出てきます。

つまり病気とか事故とかそういった手段を使って肉体を終わらせる必要があるってことです。

 

 

 

もちろんその病気や事故は、死の手段であると同時にレッスンとしての側面も持っています。

 

今ここの地球より霊的に進化した世界では、

病気や事故で亡くなる人は限りなく少ないか、ほとんどいなかったりします。

 

それは私たちより霊的に進化した別の星の生命体であったり、

 

同じ地球人でも遠い遠い未来の地球人だったり、

 

最初から肉体を伴っていない高次元で生きる生命体だったりします。

 

 

彼らは、途方もなく長い年月をかけ、

 

数限りない輪廻転生という夢を繰り返すなかで自分の中の罪悪感を癒やし続けた結果、

 

痛みや苦しみという方法(病や事故)を使わなくても肉体から離れることを可能にしたのです。

(俗にいうアセンションを続けた結果です)

 

 

 

 

病気や事故という形態は私たちの罪悪感の象徴です。

 

私たちの『神』に対する罪悪感であり、分離意識の残酷な象徴です。

 

 

 

私たちがまだ罪悪感を根強く持ち続けているあいだは、

私たちは病気や事故という象徴をどうしてもつくらざるをえないのです。

 

 

 

私たちより霊的に進化した生命体はこんなふうに肉体を脇に置きます。

映画の『スターウォーズ』で似たような場面がありました。

 

 

エピソード4でジェダイ・マスターであるオビ・ワンの死の場面、

 

エピソード8で同じくジェダイ・マスターのルークの死の場面がそうでした。

 

 

 

ジェダイ・マスターである彼らは、

 

もう自分がここで(この人生で)やるべきことはすべてやったと悟った瞬間、

 

特別なことをしなくてもスーっと肉体を離れるのです。(映画では肉体ごと消えます)

 

 

 

分離意識が根強いほど痛みの強い夢を見ます。

 

つまり重病で苦しんだり、

 

悲惨な事故や災害に遭ったり、

 

残酷な事件に巻き込まれる……etc

 

特に強い罪悪感を持っている場合は、その罪悪感の強さに応じて悲惨な亡くなり方をしてしまうのです。

 

 

 

自分が経験するものは、自分のマインドの罪悪感がどれほど残っているかによって変わるのです。

 

 

死のタイミングに偶然がないように、その人の亡くなり方にも偶然はありません。

 

しかし、どんな亡くなり方であっても、それを今生での最後のレッスンとして捉えることができます。

 

 

 

その死のタイミング、

 

その時の亡くなり方、

 

それらを良いか悪いか、

 

幸か不幸かという価値判断をせずに受け止めること。

 

 

 

その死をあえて肯定できるまで自らの観念を変えていくこと。

 

 

 

そしてそのレッスンの中に自分なりの幸せを見出し、

 

最後には自分が生きたその人生に感謝できるようになること。

 

 

 

肉体の死は、この人生で最後に向き合う最大のレッスンなのでしょう。