【病気と死③】死はレッスンの区切りⅡ


 

 

 

【あらかじめ用意されています】

 

 

 

終わっていないレッスンをするために、繰り返し生まれてくる、輪廻転生を繰り返す、

そんな言い方もできますが、

 

一般的に輪廻転生の概念として知られているものはかなり限定的な捉え方をされています。

 

 

 

 

一つの人生を終え、肉体を脇に置いて、私たちがあの世と呼んでいる世界へ行き、またしばらくするとまたこの物質世界にやってきて赤ん坊からやり直す……

 

 

多くの人は、そんなふうに生まれ変わりを一本の線のように捉えていますね。

 

過去から未来へ、時間は直線的に進み、流れに沿って順々に体験していくことを基本としています。

 

 

それは前世から現世、現世から来世へと続く流れも同様です。

 

 

数々の過去世の積み重ねによって現世が形作られている、

時間は脈々と途切れることなく続いている……

 

 

一見確かにそう見えるのですが、

 

本当は時間は断続的でバラバラの点のようなものであり、

 

過去を振り返るとき、あるいは未来を予知するときは、

 

意識的に、あるいは無意識下で、今この瞬間を経験している自分と一番関連性がある点に意識を繋げているにすぎません。

 

 

 

 

私たちは生まれてくる前に、自分がこれから生きる人生がどんなものになるのか、どんな環境で過ごすのか、どんなレッスンが待ち受けているのか、あらかじめ大まかに把握しています。

 

なぜあらかじめ知ることができるのかといえば、

 

時間という枠組みの外側から、

 

すでに終わっているものを見て、

 

終わっているものの中から選択してそこにフォーカスしているからです。

 

 

 

 

すでにすべてのパターンの人生は存在しています。

 

人生という真っ白な紙があるとするなら、私たちは何も描かれていないその紙にに鉛筆でビーっと線を描いていくような感覚で日々を生きています。

 

しかし、本当は紙は真っさらではなく、生まれてくる前に線はすでに描かれています。

 

私たちはそれを無意識になぞりながらる生きているようなものです。

 

 

 

すでに線は引かれています。

 

しかしその線は一本ではありません。

 

何本もの線が並行して引かれており、各々の線は複雑に交差しています。

 

 

 

 

あえて例えてみるなら『あみだくじ』のようなものかもしれません。

 

何本もの線が並行して引かれています。

 

そのうちの一本を選んで、その線をなぞっていき、途中で隣りの並行線と交わり、

 

隣の並行線に移ってその線をなぞり始め、また隣の線に移って、最後には他の線とは違う結果に行き着きます。

 

あらかじめいくつもの線を引いたのは誰でもなく私たち自身です。

 

『神』ではありません。

 

私たち神の子が神からの分離を信じた一瞬に、私たち自身がつくりだした無数の線です。

 

しかし、神は黙って見ているわけではなく、

 

どの線を選べばより早く確実に神の元に帰れるのか、

 

より早く苦しみという幻想から抜け出せるのか、

 

絶えずナビゲーションしてくれているわけです。

 

ここでいう選択のナビゲーションというのは、どこに行って何をするかといったことよりも、

 

今、心をどのように変えるのかというナビゲーションです。

 

 

 

 

 

すでにすべてが終わっていて、その終わりにいる自分もすでに存在しています。

 

今ここから未来に思いを馳せるあなたと、

 

未来から今ここの自分を思い出しているあなたは同時に存在します。

 

 

 

 

今ここにいる自分は「まだ終わっていない」という夢の中にいます。

 

 

私たちはゼロから何かを生み出すためにこの世界に生まれてくるわけではありません。

 

肉体意識の私たちに真っさらな紙に線を引く自由はありません。

 

しかし、すでに引かれている線のどれを選んで進めていくのか、その選択の自由はあります。

 

 

 

すでにつくられているいくつもの人生を選択しながら、

 

いったんは自我としての自分として選択した線を、

 

あらためて本当の自分として選択し直すために生まれてくるのです。

 

 

 

すでに描かれているものを修正していくことで、

 

膨大な幻想の時間を短縮し、実在の世界への家路を急ぐために生きるのです。

 

 

 

 

レッスンをどの順番で行うか、神や守護霊など誰かに強制されることはありません。

 

しかし、肉体意識の私たちがそれを知ることもできませんし、知る必要もありません。

 

 

 

今までもこれからも、一切の出来事を『神』や聖霊や守護霊に完全に委ねてしまうことが最も安全です。

 

 

 

時間に捕らわれている私たちにとって、

 

完全に時間の外側にいる存在の導きが確実なのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

【どこにでも戻れます】

 

 

もし仮にあなたが若くして亡くなってしまったとします。

 

そして、その死を通じたレッスンをやり終えることができたとします。

 

その後、あなたが望むならば、生きていた元の自分、前に居た人生に戻ることは可能です。

 

 

 

たとえばあなたが病死した場合、

病気を克服して生還するというパターンの並行生があり、

 

事故死した場合、事故を未然に回避できたパターンか、事故に遭ったけれども命は助かったとか、そういうパターンの並行生が存在します。

 

 

つまり、生きるか死ぬかという分岐点に再び戻ることが可能ということです。

 

再びそこに戻って、そこから続きの人生を生きていくことができます。

 

戻ることを決断するときは、前の人生に未練があるからとか、生前の何かへの執着で決めることはありません。

 

引き続きその人生、その環境の中で受けるレッスンが有意義だと判断した場合です。

 

 

 

 

肉体を脇に置き非物質世界に戻った後は、

 

基本的には守護霊などの指導を受けながら、肉体意識での利益ではなく、霊的進化の観点で次のレッスンを決めていくのです。

 

 

前の人生への郷愁があってもかまいませんが、それだけが決断の動機とはならないのです。

 

 

 

 

戻る人生は正確には全く同じ人生ではなく、限りなく似通った並行生です。

 

戻る人生はどんなによく似ていたとしても、前の人生とは違った並行生ですので、

 

正確には前の人生に戻っているとはいえないかもしれません。

 

 

 

 

分岐点よりもっと前を選択することも可能です。

 

あるいは分岐点よりもっと後を選ぶ可能性だってあります。

 

 

 

 

これを理解しようとするとき、自分という存在は個別に分かれた魂であり、

その魂が肉体を出入りしているという観念のままだとなかなか理解しにくいと思います。

 

 

なぜなら、その観念では、もう一つのパターンで生きている並行生の自分の肉体にも魂が宿っていることになるわけです。

 

 

 

個別に分かれた魂というものは、肉体と同様にこの世界に投影された夢の象徴です。

 

肉体の外にある、この世界の外に存在しているマインドの投影にすぎません。

 

 

 

しかし、どうしてもイメージしにくい場合は、とりあえずですが、

肉体から離れた魂が、並行生のもう一つの自分の魂に同化していくというようなイメージが役に立つかもしれません。

 

 

分岐点に戻って、そのもう一つのパターンの自分と同化する。

 

同化した時点で、以前の人生の記憶は思い出せなくなります。

 

つまり「あの時確かに自分は死んだ」という記憶です。

 

 

 

 

この世界において、この次元の私たちは同時に二つの人生に意識を向けられないからです。

 

これは赤ん坊から生まれ直す場合も同じです。

 

基本的に過去生は忘れます。

 

ただし断片的に過去生の記憶がフラッシュバックすることはあります。

 

 

 

 

並行生も同様にフラッシュバックすることは起こり得るかもしれませんが、

 

記憶が混乱するのを避けるために基本的に思い出す必要性はないし、ほとんどそういうことは起きないでしょう。

 

 

 

何度も別の並行生の出来事がフラッシュバックしてしまうことがあるとすれば、

 

その出来事は今ここの人生でも向き合う必要があるレッスンだと暗に教えてくれているのかもしれません。

 

 

 

 

 

今これを読んでいるあなたも、

実はこの人生ですでに一度は亡くなっているのかもしれません。

 

 

 

一度亡くなって、再びここに戻ってきているのかもしれません。

 

 

 

「九死に一生を得た」そんな経験を持つ人で分岐点に戻ってきた経験者は意外に少なくないのです。

(いわゆる臨死体験というものとは違います)

 

 

 

生まれ変わりというものはそれくらい自由なのです。

 

完全に自由ではありませんが、一定の範囲内では選択肢にかなりの幅があるのです。

 

次の人生を必ずしも赤ん坊から始めるとは限らない、いろんな分岐点を選択していけるというわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

【死への後悔】

 

 

 

自分自身の死も、大切に思う人の死も、死期はレッスンの終わりを意味すると言われてもなかなかすぐには納得できないのが私たちです。

 

やるべきことを終わらせたから亡くなると言われても、肉体意識の私たちは簡単には受け入れられません。

 

私たちはこの世界に「物理的に何かを成し遂げること」が目的で生まれてきたと思っています。

 

「あれもしたかった」

 

「これもしたかった」

 

もちろん物理的にしたいことはあっていいし、夢を叶えるために一生懸命に生きていいのです。

 

しかし、物理的に何かをすることはすべて自分の心に変化を起こして本当の自分に近づいていくために利用する一種の装置のようなものです。

 

一部の人ですが、自分のレッスンはあまり残っていなくて、ある特定の行動を通じて、他の人々のレッスンのサポートをすることを主目的として生まれてくる人もいます。

 

 

 

 

物理的に何かをすることそのものは最大の目的ではなく、

 

物理的な体験を通して、その体験をゆるし、最後にはそれを手放すことが最大の目的です。

 

 

肉体意識がこの世界で抱く願望の多くは、本当に欲しいものの代用品にすぎません。

 

実在の世界で生きるスピリットとしての本当の自分が感じるであろう無限の愛、無条件の愛、すべてが一体ですべてが絶えることのない歓び。

 

 

 

『神』の荘厳さ、美しさ、それらを彷彿とさせるような何かを、

 

それらを一瞬でも思い出させてくれそうな体験や物質を、この世界で肉体意識は探すのです。

 

 

 

「自分が本当に欲しいものがこの世界にあるはず」

 

 

そう信じているあいだは、私たちは自分の死も、誰かの死も、赦して手放すことは難しいでしょう。

 

 

「自分が本当に欲しいもののすべてはこの幻想の世界にはない。

すべては実在の世界に存在するんだ」

 

 

心からそう信じられるとき、私たちは後悔という渦の中から顔を出せるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

【自殺には強い制限がかかる】

 

 

自殺とは目の前のレッスンの放棄です。

 

とりあえず今ここにある問題から逃れたいと思って死を選ぶわけですが、結局そのレッスンは終わってはいないので、次の人生を選ぶ際は著しく制限されてしまいます。

 

 

制限は当然『神』が設けたものではなく、自らが自らを拘束するだけです。

 

自殺者は、やりかけのレッスンと再度向き合うために生まれ直すことになります。

 

また同じ状況か、前とよく似た状況を選んで再びチャレンジするのです。

 

 

ゲームと同じです。

 

 

あるステージをクリアしないかぎり、どうにも先には進めないようプログラムされているのです。

 

 

面倒です。厄介です。

 

結局、自殺ほど効率の悪い回り道はないのです。

 

 

クリアできるまで、無限ループのように同じ問題に対処しなくてはならないので、そこからどこにも行けないのです。

 

 

私たちは自分が恐れているものを、

 

「なーんだ、そんなものは初めから無かったんだ」

 

「あれ?どうして今までこんなものが怖かったんだろう」

 

 

そんなふうに思えるようになるためにここにいます。

 

 

そんなふうに変われるために繰り返しこの夢に来ています。

 

 

 

 

《今、自ら命を断ちたいと考えている方へ》

 

 

自殺を考えてしまうときは、

自分のことを責めて責めて責め続けているときです。

 

自分は無価値であると信じきっているときです。

 

あなたに対し、今この地球上で最も辛く厳しくあたっているのはあなた自身です。

 

当サイトでのご相談は有料になってしまいますが、無料で相談できる所もあります。

 

誰かに気持ちを打ち明けることは、

自分を愛する一歩です。

 

 

 

一般社団法人 日本いのちの電話連盟

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