ゲストさんから頂いた質問にお答えしています
光汰郎さん
お返事ありがとうございます。カウンセリングが受けられなくても、こうしてお話出来ることが嬉しいです。
奇跡講座を4年ほど学んでいますが、私の場合対人関係の悩みというより肉体の様々な症状に悩まされてきました。
ですが、それをテーマに語っておられる方があまりいらっしゃらないので、光汰郎さんのHPを見つけた時に、夢中で読みました。
現在の一番の困った症状は酷い腰痛なのですが、自我の抵抗なのか、赦しが進んでくるとますます痛みもひどい状態になってきています。
普段は、自分が心であることをかなり自覚できるようにはなりましたが、痛みが強くなるとやはりそこに引っ張られて、辛くて怒りなども出てきて、自我の思考体系に戻ってしまいます。
とっかえひっかえ、あちこちにいろんな不調が現れますが、一体いつまで続くのだろう・・・とつい気持ちも落ち込みます。
(もちろん肉体を楽にするために、病院へもかかり痛み止めなども飲んでますが、あまり効いてはいません)
ですが、それは結果へのアプローチであって原因が改善されたわけではないです。
ここを克服しなければ、心の平安など絶対に得られないとわかってはいますが、光汰郎さんにはこのようなことはなかったでしょうか?
症状で辛い時に、奇跡講座的にどのようにされて乗り越えていかれたのか、お聞かせいただけたら有難いです。
あなたは奇跡講座を学んでらっしゃるので、
なぜ自我は病気を作りだすのか、
なぜそれを赦さなくてはならないのか、
そういったことはすでにご存知かと思います。
それがわからないというわけではなく、
なかなか赦す気になれないとか、
赦しを行なっているつもりでも、それが病気の治癒という結果に繋がらないので赦しについて疑問を感じてらっしゃるのかと思います。
赦しが進むと心は軽くなっていきます。
しかし、ここで生きている間に二度と病気をしなくなるわけでもなく、事故に遭わなくなるわけでもありません。
赦しを続けることで、
ある特定のレッスンをしなくてもよくなることはあります。
ある病気が治ったり、
完治はせずとも症状が軽くなっていく人はいます。
実際にそういう体験談は数多くあります。
僕にもあります。
しかし、この世界も、肉体も、自我がつくったものです。
ここは【時間】という幻想の世界です。
【全てが分離して、全てに差異がある】という幻想です。
霊的に進歩したことで健康になる人もいれば、
学びが進んでも相変わらず病気しがちな人もいます。
健康にはなったけれど代わりに別の困難を経験する人もいるでしょうし、
病気が治らない代わりに、他の問題が穏やかになっていく人もいるでしょう。
肉体は差異の象徴であり、時間の象徴です。
遺伝的に病気しやすい体質の人もいます。
それが差異です。
老化現象で病気しやすくなることもあります。
それが時間です。
学習者すべてが同じように進んでいくわけではないでしょう。
赦しが進めば自分という存在は完璧であることを思い出せるようになるでしょうが、
存在しない幻想そのものを完璧にすることは困難でしょう。
自我が生み出したものは全て不完全です。
神の子は不完全なものを完全にすることが使命ではなく、不完全なものは最初から実在してないことを悟ることが使命です。
あなたのご質問を読ませていただいて思いました。まるで僕にそっくりだなと。
まるで自分の鏡のように感じました。
僕の過去のアメブロであなたとよく似たことを書いているはずです。
僕は腰痛ではないのですが、
あなたが抱いた葛藤、疑問、イラ立ちを同じように経験してきました。
あなたが赦しのレッスンを続けてきたように、僕もレッスンを続けてきました。
けれど僕もあなたと同じです。
病気をしなくなったわけではありません。
今でも体は定期的に不調になります。
こっちが治ったら今度はこっち、そんな繰り返しです。あなたと何ら変わりません。
そういう自分、そういう自分の体を、簡単ではなかったですが一回一回受け入れてきました。
病気をしてしまう自分の体を受け入れ、
病気をなかなか治せない自分を受け入れ、
受け入れるという言い方はカッコいいですが、
その都度あきらめてきたと言うほうが近いのかもしれません。
だから、あなたに対して返答するという形を取りながら、
同時に過去の自分に対してもメッセージを送るつもりでコレを書かせていただいています。
僕も霊的学びを進めても病気が続いてしまうことに疑問を持ったことがあります。
なぜそう感じてしまうか考えてみると理由の一つは、
『霊的進歩を遂げた者は病気をしなくなる』とか、
『病気になってもマインドの力でたちまち治せてしまうだろう』とか、
『進歩した者はマインドの力でお金でも健康でもなんでも手に入れられるのではないか』
などと決めつけてしまったからかもしれません。
そういった方法や体験をアピールする自称スピリチュアルマスターが溢れていますから、
ついついそういった人と自分を比べてしまって劣等感を持ってしまったりするのだと思います。
確かにそういうレベルになれる人はいるでしょう。
あなたも僕もいつかそうなれることはあるかもしれませんが、それは何年先かわかりません。
現世ではなく来世の話なのかもしれません。
また病気を克服できるようになれた人が、それ以外の面倒なことが何も起きなくなるわけでもないと思います。
奇跡講座の学習の目的は、
未来に起きそうな面倒を未然に回避することではなく、
今この瞬間に経験することを自我を通して見るのをやめ、聖霊と共に見つめられるようになることです。
つまり自分が問題だと信じ込んでいることが実は問題ではないんだと思えるようになることでしょう。
あなたもご存知のように、赦しが進むと自我は自らが消滅することを恐れますから、いろいろな方法で進歩を遅らせようと抵抗を強めたりします。
自分という存在は心なのか、
それともやはり肉体にすぎないのか、
自分という存在は大いなるものの一部なのか、
それともやっぱり分離した一つの存在なのか、
真実に近づくたび、
真実から遠ざかろうとするのが自意識(分離意識)ですから厄介ですね。
自分で自分を試しているという言い方もできます。
だからあなたや僕が赦しを行なっていてもいろいろ辛いことが起きるとしたら、
それは順調に赦しのレッスンを進めている証拠なのかもしれません。
穏やかなことばかりが続く人生では赦しの機会は来ないですから。
健康でいたいと思うのは当然です。
誰だって痛いのは嫌ですし、どうせ生きるなら若々しく元気でいたいです。
それでいいと思います。僕もそう思っています。
痛いときは「痛い!」と叫んでいい。
治しても治しても次から次に出てくる症状に怒りを感じていい。
誰かに愚痴をこぼしてもいいし、
辛いなら辛いと叫んでいいのだと思います。
奇跡講座の学習者だからといって特別な反応をする必要はなく、普通の反応をすればいいのだと思います。
あなたが病院や薬に頼るように、常識的な対応、思いつく方法はなんでもやればいいと思います。
病気をする自分を恥じて、
病気を治せない自分を恥じて、
そういうことを感じていながら、
そういう感情を誤魔化してしまうと、
かえってそれらを実在化させ長引かせてしまいます。
怒るときは怒る、泣く時は泣く、悲しい時は思い切り悲しむほうが健全です。
そのうえで自意識が落ちついてきた時に静かに赦しを行えばいいのでしょう。
あなたのコメントを読んだとき、
あなたにどんな言葉を伝えればよいのかイエスに尋ねてみました。返ってきたのはたった一言。
『あなたは癒されている 』
でした。
あなたは早く自分を癒さなくてはならない、
早く健康にならなければいけない、
そう思っているのかもしれません。
そうしないと霊的進歩は進まないように感じているのかもしれません。
しかし、
「自分は癒されなければならない」と考えてしまうこと自体が自我の罠です。
この状況を乗り越えた先に心の平安を経験できると思ってしまうのが罠です。
もちろん肉体面は癒されるべきかもしれません。
罪悪感を持ち続ける間違った自意識もまた癒されるべきかもしれません。
肉体も、自意識も、どちらも癒しを必要としています。
でも癒しを求めているその瞬間の私たちは、
心から離れ、
聖霊から離れ、
自我と共にいるのです。
だって神と一体の心(本当のあなた)は、一度も癒しを必要としていないからです。
この状況をなんとかしなければと自意識がもがいている時間は赦しが上手くいっていない時間であり、
それは別の言い方をすれば、
赦しをしようとしていない段階、つまり聖霊と共にこの状況を見ようとしていない段階です。
何かしらの辛い状況、何かしらのアクシデント、
病気も貧困も人間関係の問題も、赦しの方法は常に一つです。
病気には病気特有の赦し方があるわけではなく、赦しの方法はすべて同じです。
つまりは、何も判断しないで病を見ること。
何も考えずに痛みを見ること。
僕が自分でいろいろな方法を試して、結局痛みが楽になった方法は一つでした。
それは赦しを行なった時だけです。
赦しを行なっている間だけ痛みは消えました。
聖霊と同じ視点で痛みを見つめた時だけ痛みは力を失ったのです。
昨日赦しを行なったから今日赦さなくていいというわけでなく、
痛みを感じたとき、
辛いと感じたとき、
今起きていることを自我と共に見ていると気づいたときは、
24時間365日、赦しを試みる必要があるのです。
自我と共にいる時に痛みを経験します。
聖霊と共にいる時に痛みは起こりえないのです。
でも痛みを消すために赦しが必要なんだと考えてしまうとそれもまた自我の罠となります。
つまり「この痛みが消えるまでは私は癒しを経験しない」と宣誓しているようなものだからです。
奇跡講座の中で病気を治す方法として赦しが語られないのは、
あなたも書いてらっしゃるように【病気を治そうとする=結果にアプローチする】ことだからだと思います。
結果を変えてはいけないのではなく、
結果を変えようとすることじたいは自意識の範疇だからではないでしょうか。
赦しの目的は一時的でも聖霊を選択して自意識(自我)の範疇から抜け出すことであり、
結果を変えなければ(あなたの場合は痛みが消えなければ)自分は癒されない、自分に安らぎはないという考えは自我を選んだままなのでしょう。
そう信じてしまうことで自我はますますその状態を維持してしまうでしょう。
自我の願いはあなたを幸せにすることではなく、あなたを滅ぼすことですから。
痛みに対して何も考えないこと。
痛みを何とかしようとしないこと。
何とかしようとしないという意味は、肉体的な治療をする必要がないということではありません。
普通に医者や鎮痛剤に頼っていいのです。
しかしあなたの場合、薬に効果がなくて辛いのですね。
けれど見方を変えると、
最初から医療が効果的だった場合、
あなたは痛みという経験を奇跡講座的アプローチ(赦し)をすることなく通り過ぎてしまったかもしれません。
【痛い、苦しい→薬で楽になった、良かった】
それで済んでしまうなら、赦しを行う必要はないのかもしれません。
そういう意味で薬が効かないという状態は、
心に目を向け、赦しを行うチャンスを逃すまいとしてあなた自身が踏みとどまっている、そんなふうにも見ることができます。
それだけ今のあなたは赦しのレッスンに貪欲である、そういう見方もできるのではないでしょうか。
だから、もっとご自分を褒めてあげていいと思います。
あなたは素晴らしいのです。
心は何もしないのです。
もがくのは常に自意識のほうであり、奇跡講座でいうところの心ではありません。
痛みで辛いとき、それは肉体的には最悪かもしれませんが、心にとっては良くも悪くもないフラットな状況であることを思い出すことが大切です。
たとえば腰の痛みで辛い時に最初にすることは、
「今自分は夢の中で腰が痛いと感じているんだ」と思い出すことです。
そのうえで痛みに抗うのをやめること、
痛みそのものを黙って見つめること。
体からスッと抜け出し、痛いと感じている自意識を一歩下がって見るような心持ちになることです。
そのとき何も考えない、
痛みをねじ伏せようとは考えないでください。
聖霊は痛みを見ません。
聖霊は最初からそこに問題は存在しないことだけを見ます。
だから黙って見過ごすだけです。
これは状況をただ無視するということではありません。
他のことに意識を向けて苦痛を紛らわせるということでもありません。
痛みや病そのものに特定の意味はなく、初めから存在していないから何もしないだけです。
【肉体で何かしら行動しても(治療しても)心は何もしない = 痛みに力を与えない 痛みを実在化しない】
神は最初からあなたを赦しています。
神は一度もあなたを咎めたことはありません。
あなたが罪を信じて、
あなたが心であることを忘れているあいだ、
あなたは自分は病気だと信じられて、
自分は傷つくことが可能だと信じられるのです。
普通なら誤解を招くのでこういう言い方は避けますが、
あなたは奇跡講座の学習者なので、あなたなら真意が伝わると信じてあえてこう言ってみます。
究極の言い方ですが、
痛みで苦しいとき、
「このまま痛みで死んでもいい」
そう開き直って、あとは何にも考えない。
それでいいのかもしれません。
これは矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、
自分が思いつく治療を全部やってそれでもダメならもう手放すしかないのです。
痛みを怖れてしまうことが問題なのです。
僕はこういう場合、神に向かってこんなことを念じる時があります。
「この命、あなたに差し上げます」
と。
「治してください」
「治らなくてもかまいません」
ではなく。
ただただその状況を神に丸投げするだけです。
何とかしようともがくのをやめ、
あとは病気が治る治らないに関わらず、
ただ神に感謝の念を送ってみるのです。
究極はもうそれ以外ないのです。
自分がなんとかしなくては…
自分でどうにか考えなくては…
自我はいつも自分一人で何かを考え、
自分一人で何かを成し遂げられると信じています。
だから奇跡講座の学習者がするべきことは、
自分一人では何も考えられない、
自分一人では何も成し遂げられない、
常に神と共に行わなければ何も得られない。
それを思い出すこと、これのみではないでしょうか。
お互いに無理せずやっていきましょう。
『あなたはすでに癒されています』