特別な関係①


 

特別な関係とは、私たちが、

「この人だけは違う」

「これだけは他とは違う」と信じている関係性をいいます。

 

恋人同士、夫婦、親子関係、親友、尊敬する誰か、憧れの誰か、特に憎い誰か、特に嫌悪するタイプなどです。

 

特別な関係性は人間関係だけに限りません。

 

愛するペットも、愛着ある家や土地、大好きなモノ、打ち込んでいる仕事や趣味、自分の経歴、自分の地位、自分の思い出、自分の外側にあって自分にとってこれは特別と信じているものすべてです(ときに自分の肉体も)。

 

 

この関係性から学ぶレッスンは、死や病気と向き合うことと同じくらい私たちにとって最も難易度の高いレッスンとなります。

 

(正確にいえば難易度が高いと感じてしまうという意味で、あらかじめ難易度の高いものが存在しているわけではありません)

 

 

本当の自分になるための最大の難関かもしれません。

 

違う言い方をすれば、

 

〈自我に基づく目的を持った関係〉

 

〈自分の中に何らかの不足を感じてそれを補い合うために続いていく関係〉

 

〈自分の中には無いと信じたいもの、自分の中にあると気づいていながら見たくないものを見せられる関係〉

 

ということになります。

 

 

 

 

 

【特別に大切な関係】

 

 

特別に愛する関係、愛される関係を私たちはいつも求めます。

 

しかしこの関係性は多くの場合、私たちを神から遠ざけてしまいます。

 

神への不信感、神から愛されていることへの疑い、

私たちの特別な関係への強い執着は、実際には神からの愛の逃げ場としてスタートします。

 

 

「神から愛されていない」と信じている、

 

「愛されているかもしれないけれど、

皆んな平等に愛されているなら愛は均等に割られて小さくなる」

 

「自分は神からとてつもなく深く広い愛で愛されているなんて想像も出来ないし信じられない」

 

「神から特別に愛されたい、

けどどうしたら特別に愛してもらえるのかわからない」

 

 

私たちは生まれた時から無意識にこういう観念をもっています。

 

だから私たちは神の代わりを求めるのです。

 

神の代わりに自分を特別に愛してくれる誰かを求めるのです。

 

「親から特別に愛されたい」

 

「学校の先生から特別に愛されたい」

 

「友人から特別に愛されたい」

 

「恋人から特別に愛されたい」

 

「夫や妻から特別に愛されたい」

 

「我が子から特別に愛されたい」

 

「憧れの誰かから特別に愛されたい」

 

 

そう思うことは悪くありません。

 

そう思ってはいけないわけじゃありません。

 

皆んな誰もが同じです。

 

でもそれは出発点であり終着点ではないのです。

 

孤独や不安を埋めてくれる関係。

欲しいものをもらうための関係。

 

その関係性は、恋人、夫婦、親子、友人、同僚、あらゆる関係に共通します。

 

 

 

困っていたら助け合っていい。

 

私たちはこの世界では助け合わなきゃ生きていけない。

 

誰かに助けを求めていい。

 

 

でも助けてもらうために助けなきゃいけなくなることは違います。

 

与えてもらうために相手を求めることは愛とは違う。

 

与えてもらうために与えることは愛とは違う。

 

でも私たちはただ与え続けることは自己犠牲だと考えます。

一方的に与えることは消耗し続けることだと感じます。

 

 

しかし本当は愛を与えると同時に自分の中は愛で満たされます。

だから愛を受け取っているのは相手であると同時に自分自身になるはずです。

 

 

よって犠牲と感じるときは、実は愛とは違う何かを与えているだけなのです。

 

もしも今の自分が何も不足を感じていない状態、

すべてが満たされていると感じられるようになった状態を想像してみるとします。

 

それはかなり難しいというかほとんど無理かもしれません。

なぜなら自我がつくった夢の中にいるあいだは、何らかの不足を感じるよう設定されているからです。

 

だからイメージするのは極めて困難です。

しかし私たちは日常の中で、何にも求めていない、何も不足を感じていない瞬間があります。

 

 

それはほんの一瞬かもしれません。

 

 

夜、眠りに落ちる間際や、

朝、目覚めて間もないほんの数分間かもしれません。

 

 

何も不足を感じていないといって、その瞬間何もしてないわけではありません。

 

呼吸はしているだろうし、

 

何か飲んでいるかもしれないし、

 

道を歩いているかもしれない。

 

何かを見ているかもしれないし、

 

何かを聴いているかもしれない。

 

瞑想に入っている時や、マインドフルネスに集中できている状態に近いのかもしれませんが、誰でも、何も欲してない、何も不足を感じてない時間が一日のうちほんの一瞬でもあるはずなのです。

 

 

 

そんな瞬間がずっと続いている状態があったとして、

 

そんなとき誰かとの関係性はどう変わるでしょうか。

 

 

相手にしてほしいことは何もないし、

 

相手にしてほしくないものもない。

 

相手に言ってほしいこともないし、

 

言ってほしくないこともない。

 

 

相手に貰いたいものもない。

 

物理的に何かを必要としても、それは無理なくどこからか入ってくるもので相手から奪ったり、自分を犠牲にして手に入れる必要もない。

 

 

 

そんな瞬間が、もしもずっと続いたなら、自分が思うことはただ一つ。

 

 

『相手に与えたい』

 

 

ただそれだけじゃないでしょうか。

 

 

もしも肉体が孤独な状態に置かれていても、寂しいという感情が湧いてこなかったらどうでしょう。

 

寂しいどころか穏やかで安らぎに満ちていたらどうでしょう。

 

もしもお金がなくっても、不安とか悲しいとか詫びしいという感覚がなかったらどうでしょう。

 

ただ「無いんだな」

 

ただ「少ないんだな」

 

としか思わず、それ以上の感情はなかったらどうでしょう。

 

お金がなくっても決して困ったことにはならないと当たり前のように確信していたらどうでしょう。

 

 

 

ただ相手から受け取るための関係は愛とは関係ないのです。

ただの相補関係であり、愛とは違うのです。

 

私たちはいつも“何をするか”に囚われてしまう。

 

本当に大切なことは“何をするか”ではなく、

それをする動機であり、それをする目的です。

 

 

相手を抱きしめることは愛でしょうか?

 

愛があって抱きしめることもあるし、

 

愛がなくても抱きしめることはできます。

 

 

慈しむために相手に寄り添うことと、

 

自分の欲求を満たすために相手に寄り添うことは、外から見たら同じ様に見えますが中身は正反対です。

 

 

 

片方は愛で、片方は自我です。

 

 

していることは形のレベルでは同じです。

形だけではどちらが愛なのか区別できません。

 

 

 

自分の心は自分にしかわかりません。

 

だから、私たちはいつも自分の心を見つめなくてはいけないのでしょう。

 

いつも自分の心の揺れ動きを注意深く見つめる必要があるのです。

 

ただし、自分の動機が愛ではなく自我だと気づいても自分を責めないでください。

 

相手の目的が自我だと気づいても相手を責めないでください。

 

 

 

それに気付いたなら、

 

ただそれを静かに眺めて、

 

自我の代わりに愛を選ぶことはいつでも可能だってことを思い出すことです。

 

 

 

いつでもそれを選び直す能力を私たちは持っています。

 

私たちは愛とは本当は何なのかを学ばなくてはなりません。

 

正確に言えば最初から知っていたこと、忘れていることを思い出すことです。

 

思い出すためには“本当の自分”の真似をしてみるしかありません。

 

神の愛し方を真似てみるしかありません。

 

 

つまり、ただ与えるだけです。

 

 

相手に何も期待しなくなったとき、

ようやく私たちはそこから愛することを学び始めることができるのでしょう。

 

 

 

私たちは自我から始めた関係性を、違う視点で、違う関係性に移行させる必要があるのです。

 

なぜなら『特別に大切に思う関係』から生じる苦しみのすべては自我の関係性のままでいるために生まれるからです。

 

 

相手が持っているものは自分の中にあります。

 

でもそれが自分の中にもあるということが私たちはわからなくなっています。

 

相手が持っているものが容姿であれ、

 

なんらかの才能や経験であれ、財産であれ、

 

なんらかの性格であれ、

 

すべては心の中にあるものの象徴として目の前に現れています。

 

それは心の中の何を象徴しているのか、時間をかけてそっと見つめてみるのです。

 

理屈で考えるのをやめて、

相手との関係を通じて、自分の中にあるものを発見していく……

 

 

僕にとっても、あなたにとっても、誰にとっても大変なレッスンですね。

 

 

私たちが相手に求めているものは、常に“自分の中の忘れている何か”なのです。

 

その何かの“象徴”なのです。

 

私たちは相手に何かを求めていながら、本当は自分の中にあるものを思い出したいだけなのです。