本当は誰も愛したことがないことに気づく


 

愛とはいったいなんなのか、霊的な学びを進めるうち、

神の愛とは一体どんなものなのか、そのほんの一片を、朧気ではあるものの、少しずつ少しずつ垣間見たりするうち恐ろしい一つの事実に気づいてしまいました。

 

 

それは、僕はこの世界において、

少なくとも今回のこの人生において、

この肉体のレベルにおいて、

愛とはどういうものなのか全くもって理解していなかったという事実です。

 

根本的に、180度、愛というものを誤解して生きてきたことに気づいたのです。

 

愛とはそもそもなんなのか知らないで生きてきたのです。

 

愛を知らずに生きてきたなんていうと、

「おまえはいったいどんな人生を送ってきたんだ」と思われそうで嫌なのですが。。。

 

 

 

今ここにいる肉体の自分は愛とは何か確かに知っていると信じてきたし、

 

誰かを愛して生きてきたはずだと信じ、

誰かに愛されて生きてきたはずだと当然のように信じて疑いませんでした。

 

実は愛というものが、自分が信じてきた愛とは全く違っていることに気づかされることは、自分の中に潜む自我(エゴ)にとってはこのうえなく恐ろしいことです。

 

 

 

 

 

【愛は憎しみに変わらない】

 

 

肉体意識の私たちは、自分のことを愛してくれる誰かを探さなくてはいけないと信じています。

 

絶えず自分は誰かに愛されているかどうか不安になります。

 

なぜなら無意識に「自分は神から愛されていない」という観念を持っているからです。

 

「自分は神から離れている」という観念を常に持っているからです。

 

神から離れているから、

神の代わりに自分を愛してくれる誰かを無意識に探そうとするわけです。

 

 

 

 

この世に生まれて最初に出会う両親が、最初に神の代わりになってくれる人たちです。

 

しかし何らかの理由で親から愛されていると思えなかったり、

愛されてはいるけれど、その愛は永遠に続くとは信じられないために、

さらにまた自分を愛してくれそうな誰かを探し始めます。

 

 

それは恋愛対象に限りません。

 

学校の先生だったり、友人だったり、先輩後輩だったり、

職場の上司だったり、部下だったり、

憧れの芸能人やスポーツ選手かもしれません。

あるいはペットの犬や猫なのかもしれません。

 

 

御多分に洩れず、この僕もそうです。

そうやって家族をはじめ、自分がこれまで築いた全ての関係性がこれに当てはまるものでした。

 

一つの例外もありません。

 

 

しかし、今、自分も含めた全ての存在はどうやら神に愛されているらしいこと、

 

神はどのように私たちを愛してくれているかを少しずつ知るにつれ、

 

自分が長いあいだ“愛”と呼んできたものは、

愛というものとは全く別のものだということがわかってきたのです。

 

 

このショックがどれほど大きなものかお分かりになるでしょうか?

 

同じ経験をした人にしかわからないと思います。

 

自分がこれまで築いたすべての関係性は常に憎しみと紙一重でした。

 

ある時は愛が満ちて、

 

次の瞬間は憎んで、

 

またしばらくすると愛を思い出し、

 

時間が経つとまた憎み、そしてまた愛を感じる。

 

 

その繰り返しを愛と信じ、

 

愛と憎しみは紙一重なんだと本気で思っていました。

 

「それでいい、そういうものなんだ」と自分自身に言い聞かせて生きてきました。

 

 

 

今でも僕にまつわる関係性の全ては同じです。

 

変わってはいません。

 

しかし以前と違っている点があるとすれば、

 

自分が築いた関係性は自我(エゴ)によって「これが愛だよ」と信じ込まされてきた偽りのものと気づいたこと、

 

その事実を受け入れていこうとしていること、

 

 

それくらいでしょうか。

 

 

 

自我(エゴ)が定義する愛は、

 

『愛は憎しみに変わることがある』

 

というものです。

 

 

 

しかし、神が定義する愛は、

 

『憎しみを愛に変えることはできても、愛を憎しみに変えることはできない』

 

です。

 

 

愛と憎しみは共存できません。

 

愛と憎しみは決して同じ場所にはいられません。

 

愛は最初から最後まで愛として存在し、愛は愛以外の何物にも変わることはありません。

 

なぜなら愛は神に属するものであり、憎しみは自我に属するものだからです。

 

もし愛が別のものに変わることができるとすれば、

初めから愛と信じたものの中に愛とは違う何かが含まれていたことになるのでしょう。

 

 

しかし、肉体意識の私たちは愛は違う何かに変わることが可能だと信じています。

 

 

 

 

憎しみを愛に変えることはできます。

 

もう少し正確にいえば、変えるというより本当の愛を思い出し、憎しみを忘れるということかもしれません。

 

 

 

私たちは遅かれ早かれ愛についての間違いに気づき、愛について正しい解釈をしなければならなければ先には進めないのでしょう。

 

そうでないと、私たちは自分が神の子であることをいつまでも思い出せないからです。

 

 

 

 

 

愛を知るプロセス(神の愛を思い出すプロセス)はきっとこんな順番かもしれません。

 

 

① 自我(エゴ)の愛こそが愛だと信じてやまない

 

② 愛は『自我の愛』と『神の愛』の2種類があると信じる

 

③ 本当は『神の愛』だけが実在し、それ以外の愛は愛とは別物と気づく

 

④ 神の愛とは何かを真に理解できるようになるために、神の愛を自ら実践していく

 

 

 

神の愛とはなんなのか、

今の僕はその全容を語れるほどのレベルにはありませんが、僕が理解できている程度に以降のページでお話ししていこうと思います。