前回、人間同士の愛を測る際に錯覚しやすい【愛の基準】についてお話ししました。
今回は、この人間同士の【愛の基準】を、私たちは知らず知らずに
『神から神の子への愛』に当てはめてしまうことをお話ししたいと思います。
“物理的に具体的に何かをすることが愛”
そう信じていると、
「『神』は物理的に何もしてくれない。だから、自分は『神』から愛されていないに違いない」
と考えてしまいます。
ときにスピリチュアルなことを教えている人でさえ、
「神から愛されるためには……」
なんて伝えていたりするので困ってしまいます。
『神』は、私たちを愛したり愛さなかったりする気まぐれな存在だと誤解しているのです。
あるいは、『神』から与えられる愛は人によって個人差があるもの、愛の強さは不平等であるものと勘違いしてしまっています。
“愛”は物理的に示せることはあるでしょう。
“愛”を行動で表現できることもあるでしょう。
“愛”は時に言葉で伝えられることもあるでしょう。
しかしそれらはあくまで人間がつくりだした愛の形でしかありません。
【具体的に何をどれだけしてくれたか=愛の深さ】
私たちはこの基準を無意識に『神の愛』にも当てはめて、
物理的に自分の望んだことが起きたときは『神』に感謝し、
それ以外のときは『神』を忘れる。
あるいは、自分の望まぬことが起きたときは『神から与えられた試練』と思うことにしたり、
あるいは、試練を通り越して『神の罰』と思い込みます。
常に人間を基準にして『神』を捉えようとしてしまうので、
『神』は私たちの成長のために、飴と鞭を使い分けているような誤解をしてしまうのです。
『神』は自らを延長して『神の子』を創造しました。
私たちは『神の子』です。
私たちは今でも『神の一部』です。
人間だけでなく、この宇宙のすべてが『神の子』という言い方もできます。
(宇宙も肉体も幻想ですが、その背後にある心は実在します)
『神』が自らの一部である『神の子』を愛さないなんてあり得ません。
もしも『神』が『神の子』を愛さないことがあるとすれば、
『神』は自らを愛せない、自らの存在そのものを否定することになってしまいます。
私たちは物理的に自分の願いが叶った時、「神様のおかげ」と言って感謝したりします。
それはそれでいいのです。
感謝できないより、日頃から感謝できる習慣があったほうがいいのです。
『感謝する』ことと『愛すること』は同じエネルギーですから、
『神』に感謝することは、『神』に愛を贈ることであり、『神』の一部である自分自身を尊ぶことにもなります。
ただし、ここで誤解してはならないことがあります。
それは、そもそも『神』はこの物質世界に直に介入してはいないということです。
『神』は、物質世界を操作することは一切ありません。
そもそも、この物質世界は、『神の子』がマインドでつくりあげた幻想の世界にすぎないからです。
『神』からの分離を信じてしまった『神の子』が、“分離”を象徴的に投影したマインドの夢です。
実在の存在である『神』は幻想の世界に入り込むことはできません。入り込む必要もありません。
『神』は幻想の中身を変えることはしません。
『神』がすることは、私たちに幻想と気づかせ、私たち自身で幻想を放棄させることだけです。
幻想を放棄さえすれば、私たち『神の子』はあらゆる苦しみ悲しみから解放され、欲しかったものすべてを手に入れられるからです。
この世界はすべてが不確かな世界です。
永遠なるものは一つもありません。
分離していないものは一つもありません。
一個の原子ですら原子核と電子に分離しています。
完全無欠なものは一つもありません。
完璧で、
永遠なるもので、
一なるものである『神』が、
わざわざ自らと正反対のものを創造する理由はありません。
完全な存在は不完全なものを創造できません。自らにないものを創造することは不可能なのです。
私たちの見ている世界は、
幻想だから不確かであり、
不確かだから幻想なのです。
『神』が私たちに与えてくれる“愛”とは、
『神の子』は一度も『神』から分離していないこと、
『神の子』は今までもこれからも『神』が創造したままの純粋な愛そのものであること、
それを私たちが思い出せるまで、私たちのマインドに忍耐強く呼びかけることです。
私たちが見ている現実は(幻想なのですが)私たち自身のマインドでつくられた幻想です。
私たちのマインドの中に、苦しみや悲しみ、欠乏の信念があるからこそ、
私たちは目の前に苦しみや欠乏の幻想を投影している(つくりだしている)のです。
『神』は何もしていないのではありません。
私たち自身がマインドの中で豊かさをつくりだせば(豊かさを思い出せば)、
見ている現実は自ずと実りある豊かな世界に変化する。
聖霊やキリストを使い、そのことを常に思い出させること。
これが『神』が絶えず私たちに与えてくれている“愛”です。
『神』が目の前の物質世界に直接変化をもたらすことが“愛”ではなく、
目の前の地獄を私たち自身がマインドを変え、
目の前に地獄を見ながらも、心では天国を感じることができる……その方法こそが『神の愛』なのです。
『神の愛』は常にあなたの周囲を取り囲んでいます。
『神の愛』は常にあなたを包み込んでいます。
ずっとずっと今この瞬間もあなたは『神の愛』の中にいるのです。
しかし、この物質世界は五感を使うという夢の世界、肉体を通して自分や自分の周りを見るという幻想の世界です。
『神の愛』は肉体で感知できません。
『神の愛』は物理現象で表すこともできません。
『神の愛』は物質世界という幻想を通さずにマインドからマインドへ伝えられるものです。
もしも『神』がこの世界を創った当事者なら、いくらでも自らの愛を物理現象に置き換えて表現することができます。
しかし、『神』はこの世界を創ってはいません。
親が子を愛する気持ち、
子が親を愛する気持ち、
それらは『神』と『神の子』の関係に似てなくもありません。
しかし、人間の親子関係はどうしてもそこに自我(エゴ)が入り込んでしまいます。
『神』と『神の子』の関係にエゴが入り込む隙はありません。
エゴが入り込むときは、『神の子』が『本来の自分』ではなく、自我(エゴ)としての自分で『神』を見ようとするときだけです。
神の愛と人間の愛(自我の愛)は全く違うものですが、
それでもあえてわかりやすくするために、ここでは人間の親子関係にたとえて説明してみようと思います。
たとえば、あなたに愛する子供がいるとします。
あなたはその子をとても愛しています。
その愛は、とても言葉で表現できないくらい強くて深いものです。
しかし、ある事情で、あなたとその子は離れ離れで暮らさなくてはならなくなりました。
あなたはその子に会うことはもちろん、連絡することすら許されなくなったとします。
愛していることを誰かを通じて伝えることもできません。
その子の助けになるために物理的に何かをすることは一切許されない状況です。
子供はあなたに会いたがります。
子供はあなたがどこにいるのか知りたいと願います。
しかし、いつまでたってもその願いは叶いません。
やがて子供は不安になります。
会いにも来ない、連絡もしてこない、物理的に何も助けてくれない……
これは自分は親から愛されてない証拠だと思うようになります。
でも、あなたは愛しています。
まぎれもなく、あなたは今でも子供を愛し続けています。
しかし、あなたはその愛を証明する手段が一つもありません。
あなたが愛する子のことをどんなに想っても、
愛する子の無事をどんなに祈っても、子供には伝わりません。
子供は「物理的に何かをしてくれることが愛」と頑なに信じているからです。
「何もしてくれない」=「もう愛情は消えてしまった」
そう決めつけてしまっています。
しかし、実際に何もできないからといって、親であるあなたの愛が本当に消えたわけではありません。
愛は消えるどころか、ますます強くなっているかもしれません。
しかし、子供のほうはまったく正反対に感じています。
「自分は愛されていないのだ……」と。
この親子の分断劇を、私たちと『神』との関係に置き換えるとすれば、
この状況をつくりだしたのは親である『神』ではなく、
子である私たち自身です。
子供が悪夢を見てうなされているとしても、その夢をつくったのは親ではなく子供自身です。
子供が悪夢の中でうなされているとしても、子供の夢の中に親が入ることはできません。
そのとき親ができることは、
一緒に悪夢の中に入ることではなく、
夢の外側にいて、夢を見ている子供をやさしく起こすことだけです。
肉体の中で生きていると信じている私たちは、たとえるなら自ら目隠しをしているようなものです。
自ら進んで目隠しをしたにもかかわらず、「『神』の姿が見えない!」と叫んでいるのです。
そして、自らヘッドフォンをして耳をふさいで「『神』の声が聞こえない!」と嘆いているようなものです。
ヘッドフォンを外せば『神』の声を聞くことができます。
しかし、そうはせずヘッドフォンから聞こえる自我(エゴ)の声に耳を傾けているのです。
私たちはこれを無自覚に行っています。
『神』の存在が感じられないことを、何か不可抗力のように、自分が被害者であるかのように錯覚しているのです。
目隠しをしたのは自分自身です。
耳をふさいだのも自分自身です。
では、なぜそんなことをしてしまったのかといえば、このサイトでくり返し言っているように、
「『神』を感じたとき、『神』に近づいたとき、自分は『神』から罰せられる」
そうマインドで頑なに信じているせいです。
『神』を怖れてるからこそ、
「見えないことにしよう」
「聞こえないことにしよう」
「感じないことにしよう」
としているだけなのです。
ときに、私たちと『神』の中間に位置する聖霊やガイドといった存在が、
孤独に苦しむ私たちを癒したいという想いから、『神の愛』を物理的な形で顕現させ伝えてくることはあります。
それは声として伝えてくるかもしれませんし、
眠っているときに見る夢の中で、あるいは実際に目の前で神秘的現象を見せてくれるかもしれません。
そんな現象を見て、肉体の私たちは勇気づけられたり癒されたりすることがあります。
しかし、そういった物理現象は“神の愛”そのものではなく、あくまでも“神の愛の象徴”にすぎません。
“神の愛の象徴”は一時的に私たちの心を『神』のほうに向けさせることはできますが、
それはあくまでも象徴であり、『神の愛』の代替物でしかありません。
『神の愛』は視覚化することも、言葉で表現することもできないからです。
『神』は絶えずあなたを愛しています。
片時も休むことなくあなたを愛し続けています。
でも、あなたは『神』から愛されていないと信じています。
しかし、あなたは時々『神の愛』を感じています。
あなたが心の底から穏やかでいる瞬間があります。
心から安らぎを感じている瞬間があります。
あなたが心からワクワクしている瞬間があります。
心の底から喜びを感じている瞬間があります。
心から笑いたくなる瞬間があります。
心から誰かに感謝したくなる瞬間があります。
その瞬間の感覚……それそのものが『神の愛』です。
そのときの感覚そのものが【神の愛の中にいる】という感覚であり、
『本当のあなた』という感覚です。
その感覚は残念ながらほんの一時のものです。長くは続きません。
自分がいる世界が本当に幻想なんだと悟れたとき、完全に真実を思い出せたとき、
私たちは『本当の自分』に戻ります。
『本当の自分』に戻ったなら、再び幻想を信じることはありません。
そして、『本当の自分』を思い出したなら、先ほどの喜びや安らぎといった【神の愛の中にいる感覚】がこの世界を卒業するまで続きます。
24時間、365日、続きます。
何かをしたら喜べるとか、
どこかへ行ったら安らげるとか、
何かを始めたらワクワクの感覚がくる、ということではありません。
物理的に何かをしてもしなくても、
絶えずその【神の愛の感覚】に浸っていることができるのです。
絶えずその感覚の中にいることが、『本来の私たち』にとって正常な状態だからです。
「肉体の中で生きている」という夢の中に在りながら、その本来の状態を取り戻したとき、私たちは幻想世界に居ながら“本当の天国”を経験できるのです。
誤解しやすいのは、「喜びや安らぎ」を物理的な行動でつくりだせばいいということではありません。
物理的なことで得られる「喜びや安らぎ」は長続きはしないのです。
なぜなら【物理的なこと=幻想】だからです。
幻想はいつか儚く消えるものです。
幻想によって実在の喜びを得られることはできず、あくまでも幻想は違う幻想をつくることしかできません。
【神の愛】を知るには、『神』への怖れを、時間をかけて取り除いてゆくこと、それ以外にありません。
『神』への怖れを取り除くには、
すべてが幻想であるがゆえに、
すべては自分がつくりだしたがゆえに、
目の前のすべてを怖れずに見ることです。
自分に見えるものを、自分で判断することをやめ、聖霊(ハイヤーセルフ)に判断を委ねること。
怖れることなく、嫌悪することなく、それを受け入れ、最後にはそれを赦していくこと。
それを根気強く続けていくしかありません。
『神』への怖れが幻想をつくりだしたのです。
私たちは本当はここには居ないのです。
幻想を打ち消すことが、『神』への怖れを解除することです。
『神』への怖れを手放すことが、幻想を打ち砕く原動力です。
『神』を知るのに必要とされるのは、
『神』を知りたい」とする切なる祈り、「怖れを手放したい」という強い意欲です。
特別な能力、特別な経験は必要ありません。
その祈り、その意欲だけが、あなたを【神の愛】に近づける原資となるのです。