愛を測ることは可能でしょうか【人の愛】


 

「愛とは具体的に行動で示すこと」

 

あるヒーラーの方がこんなことを仰っていました。

 

「具体的に~」とは“物理的に相手に何をしてもらったか”という意味のようです。

相手がしてくれなかったことより、これまで相手が自分に対して具体的に何をしてくれたかを思いだすことで、

相手にどれだけ愛されてきたかに気づける……というニュアンスのようです。

 

 

これを聞いて「確かにそうだな…」と思いました。

 

私たちは相手にしてもらえなかったことはいつまでも憶えていたりしますが、

してもらったことは忘れてしまいがちです。

そういう意味では相手への感謝を忘れないためにこのように考えることは時には必要かもしれません。

 

 

 

しかし、

 

“愛”イコール、

【具体的に何をしてくれたか】だけでは「??」となってしまいます。

 

“愛”ってそんなにわかりやすい形ではないと思うからです。

 

 

 

“相手が自分のために何をしてくれたか?”

 

 

これは私たちが相手の愛を測るときに基準にしやすい見方です。

 

親子関係であれ、夫婦関係であれ、恋人同士であれ、友人関係であれ、

上司と部下、教師と生徒、どんな人間関係にも当てはまります。

 

 

“してくれた”と思う基準は、

 

“自分が望んでいた物理的なことをどれだけしてくれたか”

 

だと思うので、

「相手が期待していたことを言ってくれた」なども含まれます。

 

 

 

私たちは物質世界で生きています。

(正確には物質世界で生きている夢を見ています)

 

だから目に見えたり、耳に聞こえたり、そういった五感を使って、

肉体というフィルターを通して、

自分に対する相手からの愛はいかほどなのか判断してしまうのは仕方ありません。

 

 

この見方で気をつけなくてはならないことが二つあります。

 

 

一つ目は、物質的に自分が望んでいたことを相手がしてくれたとして、

その相手がしてくれた動機は必ずしも愛情とは限らないということ。

 

二つ目は、この人間同士の愛の基準を私たちは知らず知らずに

『神から神の子への愛』にも当てはめて考えてしまうこと。

 

 

今回はまず一つ目のほうをお話します。

 

 

すでに想像できるかと思いますが、物質的に相手がしてほしいことをしてあげることは愛がなくても可能です。

 

どんな関係性であれ、心から相手のためを思ってすることもあります。

愛なくしてはとてもできないと思えるような行為もあります。

愛情がそのまま行動に反映されることが確かにあります。

 

しかし、

相手との関係が壊れることを避けるためにしてあげることもあります。

相手からどう思われたいか、それが動機になることもあります。

 

この場合は愛情を動機にしているのではなく“怖れ”を動機にしています。

 

愛と怖れは全く相容れない種類のエネルギーです。

 

“愛”は本当の自分としての『神』そのもののエネルギーであり、

(エネルギーという表現は夢の世界だけのものですが……)

 

“怖れ”は自我(エゴ)に基づいたフィジカルマインドそのものです。

 

 

愛情がなければとてもできないような具体的行動は確かにあります。

しかし、『自分がどう感じたか』という主観だけで相手の行為を判断しますから、

その基準は常に曖昧で不確かです。

 

 

 

他にもこんな場合もあります。

 

「あんなに頼んだのに相手は自分が望んだことをしてくれなかった」

 

「自分が望むことをしてくれなかったばかりか、相手は自分が望まぬことをした」 

 

この場合、本当に相手に愛情がなかったのかもしれません。

 

 

 

しかし、その逆に、相手に愛情があるからこそ、

 

「あえてしなかった」

 

「あえて望まぬことをした」

 

ということもあります。

 

これは子供を愛する親御さんなら似たような状況をたくさん経験しているのではないでしょうか。

ときに愛する子のためなら心を鬼にして

“あえてそれはしない”、

もしくは“あえて望まぬことをする”

そんなことは多々あるんじゃないでしょうか。

 

 

後々になって相手の真意に気づけたとき、

ようやく相手の愛に感謝できるわけですが、生涯気づけないままの場合もあります。 

 

その場合、死んで非物質世界に移行したあとで初めて相手の真意を知ったりします。

 

向こうの世界で、時間の流れの外側に出て、 

自分が経験した人生すべてをつぶさに振り返ったとき、

その時々の相手の本当の気持ちに気づかされて恥ずかしい思いをしたりします。 

 

 

 

あるいはこんなケースもあります。 

 

相手が「してくれなかった」「望まぬことをされた」ことが、

実は相手は無意識にそのような役割をしていたりすることがあります。

 

当人は全く無自覚なのですが、

生まれてくる前にそのような役割を負うことを相手と同意したうえで生まれてきていたりします。

 

何のための役割かというと、

 

相手にとって、

 

そのときの状況、そのときの関係性が、

 

相手に多くのことを気づかせることができ、学ぶことができ、

 

相手が『本当の自分』にまた一歩近づけるようになるためです。

そのためにあえてそのような役割を担うのです。

 

 

これはもともと“愛”が動機となっている役割です。

 

 

 

相手はそのような役割を負っていることは、肉体で思い出すことはありません。

 

知らないほうが賢明なのです。

 

逆に自分の役割を自我として意識してしまうと、するべきことをしなかったり、するべきことでないことまでしてしまうこともあるからです。

 

 

 

 

相手が“具体的に何をどれだけしてくれたか、してくれなかった”というより、

 

相手が“どんな動機でそれをしてくれたのか、どんな動機でそれをしてくれなかったのか”

 

ときにそちらのほうが重要だったりするのです。

 

 

 

 

結局のところ、相手の行動に愛がどれだけ込められていたかなんてわかりっこないのです。

(少なくても肉体として生きているあいだは……)

 

相手が何をしてくれて、何をしてくれなかったか、

 

それだけを基準に“愛”を判断することは危険なことであり、根本的に無理があるのです。

 

 

 

しかし、私たちは常に“愛”を求めてしまいます。

 

いつだって相手に愛されているのか、相手に愛されてきたのか、「気にするな」といっても気になってしまいます。 

 

 

 

だからこんなふうに考えてみてください。

 

 

相手の行為に“愛”があったかどうかわからない……

 

相手の真意、意図は今は知ることはできない。

 

けれど、

 

「この経験は、後になって自分が『本当の自分』になるために必ず役に立つ」

 

と信じてみる。

 

 

 

 

この世界はあなたのマインドがつくりあげた夢です。

 

夢であるがゆえに、

 

あなたの身に起きること、

 

あなたが見ているものに特定の意味はありません。

 

意味はその都度あなた自身が価値判断してつくりあげています。

 

 

 

相手が何かをしてくれたとしても、

 

相手が何もしてくれなかったとしても、

 

それがポジティブなのかネガティブなのか、その都度あなたのマインドが判別しています。

 

 

あなたが経験する未来は常に複数の可能性があります。

 

あなたが「相手のしたこと、しなかったことは、自分にとってポジティブな結果になる」と解釈し、

その経験を手放すことができれば、

 

 

未来であなたは「確かにあの時、あの人に“愛”があった」という証拠を見るでしょう。

 

 

その未来とは、生きているあいだかもしれませんし、死んでこの世界を離れたあとかもしれません。

 

 

 

あなたがあくまでも物質的な見方、自我(エゴ)による見方に留まって、

 

「愛がないからしてくれなかった」

 

「愛がないから望まぬことをされた」と結論付けてしまうなら、

 

未来であなたは「やっぱりあの時、あの人に“愛”はなかった」という証拠を見るでしょう。

 

 

 

相手が具体的に何かしてくれても、してくれなくても、

 

いつか必ずその背後に“愛の導き”が隠されていたと知る日が来ます。

 

 

今はそう信じて相手に感謝してみてください。

 

口に出せなくてもいいです。

 

心の中で「ありがとう」と言ってみる。

 

心からそう言ってみる。

 

 

 

いつだって“愛”があなたを取り囲んでいます。

 

今のあなたにそれが見えていなくてもです。