愛に囲まれる感覚 愛を遮断する感覚②

 

 

 

【愛に囲まれる体験 】

 

 

神の愛に満たされる感覚とはどんな感覚なのか言葉で説明するのはとても難しいですが、僕の経験した範囲内でお話してみます。

 

 

僕が最初にそれを経験したのは昔の話ではなくほんの数年前のことです。

奇跡のコース(奇跡講座)を学び始めて何年も過ぎてからのことでした。

それ以前もスピリチュアルな学びはずっとしていましたがこういう体験はありませんでした。

 

 

ある晩、キリストに祈っていました。

 

「どうかすべてを赦せますように」

 

「どうかすべてを赦してこの世界を今生で終わらせることができるよう導いてください」

 

 

眼を閉じて、強く、強く、強く、祈り続けていたのです。

 

 

すると真っ白な衣をまとった誰かがスーッと僕の中に入ってくるのが見えたのです。

 

とっさに僕は「イエスだ。イエスが来てくれた」と感じました。

 

顔が見えたわけではありませんせん。

 

名を名乗ったわけでもありません。

 

しかし僕には直感でわかったのです。

 

 

 

それまで何年ものあいだ、イエスに何度呼びかけてもこのような現象は起きませんでした。

 

イエスに質問をし、思念によって答えてくれたことは何度かありました。

 

ですがこのように“来てくれた” という体験はこの時が初めてです。

 

 

感謝しました。

深く、強く、感謝の念を贈りました。

 

すると、どんどん僕の中に愛が流れ込んできたのです。

その時は、ただただ「ありがたい」という感覚です。

 

感謝すればするほど、愛はどんどん自分の中に入ってきて、

さらにまた「ありがたい」という感覚が増長してくるのです。涙が溢れてきました。

 

例えるなら、愛というお湯の中に頭のてっぺんまでドボンと浸かった感じでしょうか。

その時、それを経験している時間、他のことは何も気になりません。

 

自分が今どこにいて、

自分に見えているものが何なのか、ちゃんと認識しています。

 

しかし、それらは気にならないのです。

 

自分の人生の大半のことが、どうでもいいわけではないですが、

その時に感じているもの以上に重要なものは一つもない、そんな感覚に包まれていました。

 

 

 

 

感謝の念は愛です。

 

感謝と愛は全く同質なものです。

 

 

感謝すればするほど愛を呼び込み、

 

愛が流れ込むほどに、また感謝の気持ちが溢れてくる。

 

 

そういう愛の連鎖が続くのです。

 

感謝と愛の連鎖です。

 

 

誤解されると困るのですが、

自分の外側から何かが入ってくるというのは原則的には幻想です。

 

 

イエスは個別の存在として、人間の姿をして、どこか違う次元に存在しているわけではありません。

 

 

ハイヤーセルフとして、

キリスト意識として、霊(スピリット)として、

そういったものの象徴として、そのような姿や現象として肉体意識の僕にとって受け入れやすいように顕現してくれたということです。

 

 

 

すべては自分の中で起きています。

 

自分の外側には何もありません。

 

 

キリスト意識は自分の外に存在しているわけではなく、自分の内に在るものです。

 

肉体意識が自らの高次の意識(本来の自分)と交わるとき、このようなわかりやすい現象として具現化されることがあるわけです。

 

 

 

 

それからしばらく経って、同じよう体験を再び経験しました。

 

 

ひと気のない道を一人歩いていました。

 

奇跡のコースの教師である今は亡きケネス・ワプニックのことを考えていました。

 

当時も今でもそうですが、どうにも学びに行き詰まった時や、

カウンセリングの方法がわからなくなった時などに心の中でワプニックに助けを求めていました。

 

 

ワプニックは、この世界のすべてを赦し、この幻想の輪廻転生を卒業していった人ですが、

歩きながら、そのワプニックに感謝の念を贈っていました。

 

 

 

それからイエスの時と同じく再び感謝と愛の連鎖が始まりました。

 

ありがたくて、ただありがたくて、自然と涙が溢れてきます。

 

もうその間というものは何も怖いものがないっていう感覚です。

 

目の前に誰が居ようと、

 

何を見ようと、

 

何を聞こうと、

 

その時間は何も怖れがない状態です。

 

 

最強です。

 

「ずっとこの状態でいられたら、人生のすべての事柄は大した問題じゃない……」

 

そんな感覚になります。

 

 

 

最強と書きましたが、自分が他者より強くなるという意味ではありません。

 

自分を脅かす人間や、

 

自分を追い詰めるような出来事は、本当は幻想でしかなく、ただ愛だけが存在していると思える感覚です。

 

 

 

連鎖はどんどん続きます。

 

愛はどんどん流れ込んできます。

 

神の愛です。

 

キリストの愛です。

 

 

 

仮に僕が仏教徒なら仏様に祈ったかもしれません。

 

祈る対象は神でもいいし、どのアセンデッド・マスターでもいいのです。

 

物質世界で顕現された姿は問題ではありません。

 

皆、同じところ、同じ一つの霊としての象徴ですから。

 

自分が親しみやすい祈りやすい存在なら何でもいいのです。

 

 

 

 

愛に形はありません。

 

時に形になることはあります。

 

時に言葉に変わることはあります。

 

時に具体的な行動、具体的な現象として現れることはあるでしょう。

 

 

しかし、それが愛そのものとはいえないのです。

 

愛に満たされる時、それは自分にしかわかりません。

 

他人が見ても、僕の中に何が起きているかまったくわからないでしょう。

 

 

「今、僕は愛に囲まれているんです」

 

 

誰かにそう言ったところで、何も証拠はないのです。

 

その愛は大金をくれるわけではありません。

 

その愛は地位や名声をくれるわけではありません。

 

でも確かにそれは愛であり、それは確かに自分が求め続けてきたものなのです。

 

 

 

その時間、肉体で見えているものは同じです。

 

その時間、肉体で聞こえているものに変化はありません。

 

しかし、その時間、自分を取り囲むものすべてが愛です。

 

すべてが怖くありません。

 

すべてが自分の兄弟であり、すべてが愛おしい存在です。

 

ただただ「ありがたい」という感覚の連続です。

 

ただただ愛が流れ込んでくるのです。

 

 

 

それだけです。

 

それだけですが、それがすべてです。

 

 

 

しかし、問題なのはそれで終わらなかったということです。

 

 

(次回へ続く)