愛に囲まれる感覚 愛を遮断する感覚①


【愛に囲まれる感覚】

 

 

私たちは愛というものは、

ある場所にはあって、

ある場所にはなかったりすると思っています。

 

愛はあるときに現れ、

あるときに消えてしまうものと思っています。

 

 

愛は強くなったり、弱くなったり、

愛は人から人へ渡されるイメージかもしれません。

 

 

愛というものが本当は何なのか、

僕も含めて、肉体意識のレベルではすっかり思い出せなくなっています。

 

スピリットのレベルでは一度も忘れたことはないのですが……。

 

肉体レベルの私たちが知っている愛とは移ろいやすく不平等なものかもしれません。

 

 

 

ここでいう愛とは神から神の子への愛であり、

 

神の子としての本当の自分が知っている唯一の愛であり、

 

神の子として神から受け継いでいる唯一の愛です。

 

 

 

愛にはいくつもの種類があるように私たちは思っています。

 

親が子を愛する愛、

恋愛、

友情、

愛をいくつもに分けて捉えてしまいますが、

 

本当は愛は一つしかなく、

それ以外は愛と思い込んでいる自我でしかないのでしょう。

 

 

神の愛は無償であり、

 

常に無条件であり、

 

永遠に不変であり、

 

ただ与えるのみです。

 

 

神の子が受け継いでいる愛の性質も全く同じです。

ただ与えるだけです。

 

与えられる側も同様にただ与えるだけです。

 

 

何かをもらう代わりに与えるわけでなく…。

 

「自分が欲しいものを与えてくれないなら愛を与えるのはやめよう」

……ではなく。

 

 

肉体意識の私たちは愛を与えるには条件が必要であり、

愛を与えたなら、それと同等かそれ以上の愛を返してもらいたいと願います。

 

 

私たちはいつもこの勘違いをします。

 

これを自我とは気づかずに愛だと信じています。

 

 

自分が愛そうとするものが何であれ、それは自分の心を映し出しています。

 

 

この世界で肉体の自分が見ているものすべては自分の心の中の反映だからです。

 

 

 

自分が与えることのみに集中していれば、

愛はどこからか自分に与えられることに気づくでしょう。

 

 

あなたが与えることにのみ意識が向いているなら、

同じようにあなたに与えることのみに意識が向いている誰かを引き寄せるでしょう。

 

 

こう書くと必ず誤解されます。

 

「相手に愛されるためには自分から与えなくてはいけないんだ」と。

 

 

先に書いたように、貰うために与えようとするならそれは自我なのです。

 

よって自我が引き寄せるものは同じ性質の愛に見せかけた自我になってしまうでしょう。

 

 

 

あなたが貰うために与えるのだとすれば、

同じように貰うために与える人に出会うだけです。

 

 

 

これは難しい法則です。

 

シンプルなのに難解です。

 

簡単なようで実践するのは最も難しい真理です。

 

 

誰かに愛されなきゃいけないと思うのは、

「自分は神から愛されていない」と信じているせいです。

 

 

神からの愛を実感できているときは愛を探すことはしないものです。

神の愛を実感できないとき、代わりに愛してくれる何かを無意識に探します。

 

 

僕だってなかなかできません。

だから愛とは何かを知るために(思い出すために)生涯をかけて学ぶことになりそうです。(座学ではなく)

 

 

 

 

 

 

【神の愛】

 

 

私たちはなぜ自我を愛だと誤解するのでしょうか。

 

それはきっと何も条件がなく、

すべての存在が全く平等に永遠に愛されることなど不可能だと信じているせいです。

 

 

 

私たちはいつも愛を探しています。

 

しかし愛は見えません。

 

けれど本当は愛はどこにでもあるのです。

 

 

愛はいつだってあるのです。

 

常にあなたの周りにあります。

 

常に僕の周りにあります。

 

神の愛です。

 

神から神の子への愛です。

 

そして神の子から神の子への愛です。

 

 

愛は常に無限にあります。

 

愛は絶えずあなたを取り囲んでいます。

 

私たちは本当は今この瞬間、愛という大きな大きな海の中に身を沈めているような、そんな感じなのです。

 

 

 

 

しかし、

 

絶えず愛の中にいる、

 

いつでも神の愛に取り囲まれていると言われてもピンとこないのが普通です。

 

 

 

僕もそうでした。

過去形で言ってますが、今も愛に囲まれていることを頻繁に忘れます。

 

 

 

忘れるというのは実体験でという意味です。

 

頭では、知識としては忘れません。

 

でも、感覚的に忘れてしまうことがほとんどです。

 

これは真の意味で愛の本質を理解出来ていないということです。

 

未だ愛を完全に受け入れてはいないということです。

 

神の愛を100%信頼していないということです。

 

霊的理解とは常に実践なのですから。

 

 

 

 

この世界は実在しない夢です。

 

神から遠く離れた宇宙に一人ぼっちで生きているという夢です。

 

あるいは誰かがそばにいるけれど、永遠には一緒にいられないという夢です。

 

私たちの顕在意識とは違うレベルで抱いている強い信念がそんな夢をつくりだしています。

 

 

 

分離の夢です。

 

罪悪感の夢です。

 

 

私たちが二元性を信じているあいだは、

自我を愛のようにイメージしてしまうのは致し方ないと思います。

 

 

[誰かに何かをしてもらった時に愛を感じる]

 

[愛とは物理的な行動だと信じる]

 

 

たとえば今、僕があなたを愛していると言ってもあなたは信じないでしょう。

 

「じゃあ愛している証拠は?」

 

と物理的な何かを要求するでしょう。

 

 

 

それは神の愛も同じ。

 

神は常にあなたを愛していると言っても

「じゃあその証拠は?」ってあなたは聞くでしょう。

 

 

言葉や行動が愛の表現であること、愛を反映しているときはあります。

 

言葉や行動は愛がなくてもできることがあります。

 

 

 

 

あなたも僕も、愛そのものとして創造されました。

 

よって愛以外のものが実在できるはずはないのです。

 

 

しかし、この宇宙では愛以外の何かが存在できるという信念が私たちにあるのです。

 

愛ではないものを感じたり、

 

愛ではないものをつくりだすことは可能だという間違った観念を持っているのです。

 

 

 

神の愛を感じられないのは、自分自身がそれを遠ざけているせいです。

 

神の愛をシャットアウトしているのは自分です。

 

何よりも感じたいと思いながら、無意識にそれを拒絶する。

 

 

私たちはその繰り返しです。

 

 

それが自我の影響であり、

その自我を生み出したのは神の子である私たちの神への怖れです。

 

 

 

 

 

【愛への怖れ】

 

 

 

[神は時に自分に試練を与える]

 

[神は時に自分を戒める]

 

[神に愛される人と愛されない人がいる]

 

[神に褒めてもらうためには努力が必要]

 

[神に助けてもらえるような相応しい人間になる]

 

[そしていつか神は自分を罰する]

 

 

神を人間にたとえるのは不適当かもしれませんが、

あなたの親や先生が、愛と称して突然殴ってくる人だったらどうでしょうか?

 

 

普段は優しく穏やかだけど突如として怒りだしたり、

 

兄弟やクラスメイトを不平等に扱ったり、

 

理由も分からぬ厳しい試練を与えてくるような、

 

そんな親や先生に対して、あなたは完全に心を開くことができるでしょうか。

 

100%信頼し、安心して身を委ねることは可能でしょうか。

 

 

 

僕はできません。

あなたは可能と言うかもしれません。

でも僕には無理です(笑)

 

 

 

神とはこんなふうな存在だと心の深い深い部分で強く信じてしまえば、

 

無意識に神を怖れてブロックするのは当然でしょう。

 

 

(次回へ続く)