私たちは誰かを好きになります。
恋愛感情の類いかもしれません。
友情の類、尊敬の念かもしれません。
手が届きそうにない憧れの類いかもしれません。
誰かのことが気になる、どんどん知りたくなる。
相手への関心が強ければ強いほど、これは愛情なのかもしれないと考える。
恋愛感情であれば、相手のことをもっと知りたいという気持ちから、
相手を欲しいという気持ち、独占したいという気持ちへと進んでいく。
自我の中で生きている私たちは、これは相手への愛だと思っています。
【相手への興味が強くなること=相手への愛情】だと思い込んでしまいます。
でも、相手への関心が強いという時点では愛とはいえないし、ほとんどのケースで愛とは関係なかったりします。
なぜなら大概は相手が、
『自分が持っていないと信じる何かを持っている』
『自分が持っていない何かを提供してくれる』
と感じるから相手への関心が強くなっているのであり、
それは相手への期待であって、相手への愛と直接関係ないのです。
愛ではないという言い方もできますし、自我の愛という言い方もできます。
「愛の反対は無関心」と言う人もいます。
よって関心が強まるのは愛の基本形という考えもあるかもしれません。
しかし、その定義はあくまでも自我の視点の枠から出てはいません。
ただし、誰かに強く関心を持つことがいけないという訳ではありません。
なぜなら、私たちがこの世界で出会う相手すべては、生まれてくる前からすでに決まっているからです。
偶然は一つもありません。
すべての出会いは最初から決まっているのです。
これは時間の流れを直線的に考えてしまうと誤解が生じます。
時間は直線的ではありません。
無数にある点のようなものです。
その一つの点に、今この瞬間のあなたがいます。
今この瞬間見ていること、経験していることのすべては、あなたの心があらかじめつくっていた夢の中の一点です。
この夢はあなたの心の中でつくりだしたものです。
今あなたが見ている夢の内容は、今ここにいるあなたの波動に合わせた内容です。
今この夢の波動に肉体意識のあなたが合わせているという言い方もできます。
だからあなたのその時々の波動によって出会う相手は変わります。
出会いのストーリーは無数にあります。
すべての出来事、すべての出会いは夢の中で点状に存在して、あなたの波動が変わる度、
誰と出会うのか、その相手とどんなストーリーになるのか変化していきます。
だから今ここで波動が変わって、昨日まで出会うはずだった人と出会う必要がなくなったりすることはあります。
昨日まではその人と深い関係になるはずだったけれど、あなたの波動が変わったためにその人とは知人止まりで終わったりします。
その逆も当然あります。
今日あなたの波動が変わったために、道ですれ違うだけで終わるはずだった相手と結婚するようなストーリーに変わることもあり得ます。
今ここの自分の波動によって、この先誰と出会い、どんなストーリーが待っているのか、肉体意識の私たちには知る術はありません。
肉体意識でストーリーを細部までコントロールすることもできません。
そもそも知る必要もありません。
仮に知ることができたとしてもストーリーは常に変化するのであまり意味はないかもしれません。
誰と出会うのか、その人とどんな関係になるのか、その可能性は無数にありますが、
すでにすべての可能性(並行生)はつくられており、
つくられたすべての可能性(すべての出会い)を経験するあなたはすでに存在しており、
そういう意味においてはすべての出会いは最初から定められているというわけです。
誰かに強く惹かれてゆくのは、自我の観点では愛とか好意が理由ということになりますが、
霊的な理由としては、その相手と関係を築くことが自分にとって何らかのレッスンとなるからです。
それは異性でも同性でも関係ありません。
恋愛に発展しようが、友人関係にとどまる相手だろうが同じです。
その人との関係性の中に今生のあなたが経験するべきレッスンがあり、
深くなる関係ほど、その中に多くのレッスンが潜んでいます。
強い関心を抱くという点では、強い嫌悪感を抱く相手も同じです。
強く憧れて気になってしまう誰かと、
強く嫌悪して気になってしまう誰かは、実は霊的な視点で見るとまったく同じポジションなのです。
〈強い関心を持つ=その相手との関係性はあらかじめ定められた重要なレッスンだから強く惹かれる〉
ということです。
“好き”と“嫌い”は正反対のようで実は同じなのです。
好きであればあるほど、
嫌いであればあるほど、
今生のあなたにとっては学ぶこと、ゆるすべきレッスンが濃密に内包されているということです。
全ての出会いは生まれる前から決まっています。
親子であろうと、兄弟だろうと、友人だろうと、恋人だろうが、夫婦だろうが、全て決まっています。
しかし、すべての出会いのレッスンに共通するテーマは、
最初から最後まで『相手をゆるすことを通して自分自身をゆるすこと』です。
すべての相手は、自分であって自分でないと誤って信じた“自分の一部”なのですから。
仮に相手への関心がなくなったからといって、それは愛が冷めたからとは限りません。
もともと〈関心=愛〉ではないのですから。
あるいは、そもそも〈関心=愛〉ではなかったりするわけですから、最初から愛していなかったともいえます。
すべての関係性の始まりはレッスンとして始まり、
関心が自然に薄れていくのは基本的にはそのレッスンの終わりを意味します。
もしもそのレッスンは終了していないのに相手から離れたとしたら、また同じようなレッスンをどこかで経験することになるでしょう。
似たような相手、似たような関係性、関係の中で起きた似たような出来事を再び経験するのです。
相手への関心が自然に薄れてゆくなら何の問題もありません。
しかし、特別な感情を残している場合、その感情があることを見ないふりをしているだけならば、やはりそのレッスンは終わっていないでしょう。
特別な感情とは単純にいえば、相手への憎しみが残ったままとか、本当は別れたくなかったのに別れざるをえない状況になって仕方なく別れるとか、そういうことです。
相手への関心が薄れること自体は何も悪くありません。
だからそのことに罪悪感を持つ必要はありません。
でも関心の強さが愛情の強さだと相手も自分も信じている場合、相手の気持ちを傷つけたり、自分自身も罪悪感を抱いてしまうでしょう。
関心が薄れても、その愛が自我の愛でない限りは消えることはありません。
本当に愛していたのなら愛はどこにも去ってはいません。
自我は『愛することは相手に執着することだ』と囁きます。
強い関心を持つことが愛だと信じ込ませるのです。
私たちは執着こそが愛だと思い込むことからスタートします。
でも執着が生み出すものはいつだって最後には苦しみだけです。
相手に与えてみるしかありません。
愛を与えてみるしかないのです。
自我の愛が執着ならば、神の愛は『与えて、そして手放すこと』かもしれません。
与えるということは時に行動を伴う場合もありますが、
基本的には相手の存在をどう見るかということ、
相手への見方を自我を通して見るのをやめて聖霊(ハイヤーセルフ)を通して見るということ、
相手に赦しを与えること、
です。
相手という存在を、一度も汚れたことのない純粋な神の子だってことを前提として見るのか、
相手という存在を、自我そのものの肉体として見るか、
自分の肉体で見えるまま感じるままが相手の真実だと信じるのか、
私たちが与えることができるものは、相手を正しく見つめなおすことだけであり、
それが私たちが唯一与えることができる“愛”なのです。