「思い通りにしたい」
「思い通りになった」
「思い通りにできない」
多かれ少なかれ私たちはこの繰り返しですね。
「思い通りにならないのは自分の努力が足りないんだ……」
そうかもしれません。
「うまくいかないのは向いていないから」
そうかもしれませんね。
向いていないのかもしれません。
「運がないからダメなんだ」
そうですね。
確かに運気のようなものは存在します。
私たちは望み通りにいかないとき、
何度こんな言葉を繰り返してきたでしょう。
私たちが見ている世界は夢です。
私たちは肉体の中で生きているのではありません。
私たちの正体はスピリット(霊)です。
そのスピリットの中にマインド(心)があり、
そのマインドの中に、
「自分は神から分離して独自の個性を確立した」
と信じている部分があります。
その部分が、
『自分は肉体の中で生きているという夢』
『自分は宇宙の中で生きているという夢』
を見せているわけです。
【眠っている時に見る夢】
と
【起きている時に見ている夢】
は本質的には同じです。
重さや硬さを感じるか感じないか、そんな違いであり、
時間や空間といった制約が強いか緩いかの違いであり、
どちらも基本的にはマインドが投影している幻想にすぎません。
この夢をつくっているのは私たち自身です。
この夢をつくっているのはあなたのマインドです。
肉体の中にいるあなたではなく、
この夢の外側に居て、
この世界を夢でつくりあげたマインドとしてのあなたです。
この世界が本当に現実なら、何でも自分の希望通りになるなんてあり得ないと思います。
しかし、幻想なら話は違ってきます。
この世界が、
全部夢で、
全部自分がつくっている、
それが真実なら、
自分の思い通りにならないはずはありません。
それぞれの人が、
それぞれの視点で、
それぞれの物語(幻想)をつくっています。
あなたの視点でつくられる物語では、
あなたが主役で、
あなたが関わる人たちは脇役として配置されます。
他の人の視点の物語では、
あなたが脇役として配置されます。
だから自分がつくる幻想は、
本来ならば自分で変えられるわけです。
『自分が経験することは、すべて自分でつくっている』
その事実を100%受けいれられることができるなら、
この世界は大概のことはあなたの思い通りになります。
しかし、そう簡単にはいきません。
なぜなら、私たちは、自分の見ているものがすべて “自分がつくっている” とは絶対に思いたくないからです。
信じられないというより「信じたくない」のです。
この世界は基本的に不可抗力の世界だと思っていたいのです。
部分的には自分がつくっていると信じられるかもしれません。
「これとこれは確かに自分が原因に違いない」
しかし、“すべて” となるとどうでしょう。
基本的に誰もがこの事実は絶対に受けいれたくないのです。
何故なら、あなたのマインドに潜む自我(エゴ)が必死に抵抗するからです。
エゴにとって、この世界は不可抗力でなくてはいけません。
現実でなくちゃいけないのです。
幻想であっては困るのです。
幻想だっていうならば、
「じゃあ現実はどこにある?」ってことになります。
エゴは、この世界のもの以外に意識を向けてほしくないのです。
この世界以外に現実があるなんて信じてしまったら、
自分の(肉体の)存在理由は失われ、
やがては自分の存在そのものが消えてしまうかもしれない、
そんな恐怖が頭をもたげてくるからです。
受けいれたくない理由がもう一つあります。
他人が言うこと、
他人がすることのすべて、
知り合いだろうが、
見知らぬ人だろうが、
ニュースで見る日々の事件、事故、天変地異、
遠い国で起きている戦争を含め、
恐ろしく残酷なもの、
できれば近づきたくない誰か、
嫌悪するモノや場所、
それらが実は自分自身のマインドでつくったなんて思いたくないのです。
私たちが見ているものは、
自分のマインドの中にあるものたちです。
ここでいう自分のマインドとは、あくまでも肉体意識の個人と信じている意識のことではありません。
自分のマインドの中にあるものを象徴的に夢の中に投影しているのです。
別の言い方をすると、
自分のマインドに確かに存在すると信じてしまっているもの
です。
恐ろしく残酷なものは人間かもしれないし、事象かもしれません。
「自分という存在に、
恐ろしく残酷で汚い何かが確かにある」
そんな潜在的に隠された信念を投影しているのが、私たちが見ている夢の世界なのです。
「これとこの出来事は自分がつくった。
でもあれやそれは自分ではない」
そういう例外は一つもありません。
宇宙のすべてをつくっているのは自分、
宇宙のすべてをつくっているのはあなた。
大雑把な図にするとこんな感じです。
(厳密にはマインドは神に創造されたままの分離をまったく信じていない部分がありますから、この図の説明も正確ではありません)
自分がつくりだすものと、
見ず知らずの誰かがつくりだす何かは常に分けておきたい。
これが私たちの分離意識なのです。
バラバラに存在する個のマインドが、
どうやって宇宙の森羅万象をつくれるのか。
どうやって個のマインドのあなたが、
世界の戦争や、天変地異をつくりだせるのか。
自分という存在が、
たった一つの肉体の中に居ると信じ続ける限りまったく理解できません。
あるいは、自分という個のマインドが在ると信じ続ける限り、
何ゆえ他人がしていることにまで自分が関わっているのか想像もできません。
バラバラの個が、テレパシーか何かで繋がっているわけでもありません。
(幻想の世界においてはテレパシーも真実ですが…)
最初からマインドは一つしかないのです。
一つしかないのに、
その中で“自分は個”と信じてしまったいくつもの部分。
それが今ここに居るあなたであり僕なのです。
『あなたが見るものすべてはあなたに責任があります』
自動車を運転していたら渋滞につかまってしまった。
そのルートを選らんだのは自分だから、渋滞につかまるのは確かに自分に原因があると思う。
「この出来事は自分がつくった」と素直に思える。
でも、誰かが起こした事故が原因で渋滞が起きていることについては「自分がつくった」とは思いたくない。
どこかの誰かがしでかした何かを、
あなたが物理的に、あるいは法的に肩代わりしなきゃいけないわけじゃありません。
誰かのすることを、あなたが監視する必要もありません。
ただ、目の前に繰り広げられるものは【自分のマインドの中】だってことを自覚しなくてはいけません。
あなたが何を見て、
何を経験するかを、
あなた自身がマインドの中で絶えず選び直さなくてはいけないってことです。
仮に選び直さずに、単純に自分がつくったということだけで見てしまうと、それをつくってしまった自分を責めるようになってしまいます。
必ず、見た後、選び直すまでが必要なプロセスです。
あなたが今見ているものが、あなたに苦しみや嫌悪、憎悪を抱かせるものであれば、
それはあなた自身のマインドの中に、
「自分とはこんな存在。『神の子』とはこういう存在」
そういう信念があるということなのです。
『あなたが見るものすべてはあなたに責任があります』
この言葉を聞くと、冷たく突き放されたような感覚になるかもしれません。
でもこの言葉にネガティブな反応をしていることこそ、
今あなたのマインドが、ハイヤーマインド(聖霊)ではなく、
フィジカルマインド(自我・エゴ)に支配されている証拠なのです。
すべてをつくったのが自分なら、
自分がすべてを変えられる可能性があるということです。
(厳密には、すべてを変えられるかもしれませんが、最初に変えるべきは自分のマインドの反応です)
自分がつくってしまったものから逃げないことです。
たとえばピアニストがいるとします。
もしもピアニストが、
「右手の中指と小指は自分の指じゃない」
「左手の人差し指と親指以外は他人の指に違いない」
そんなふうに信じてしまったらどうでしょう。
このピアニストはまともな演奏ができるでしょうか?
「両手にあるすべての指が自分の指」
そういう確信があって、初めて思うとおりにすべての指をコントロールできるのではないでしょうか。
私たちの人生も同じです。
「ある部分だけ自分がつくり、
他の部分は自分以外の何か、それは他人かもしれないし、神様かもしれない何者かがつくっている」
そう信じていたらある意味気は楽かもしれませんが(これはこれで不快感が残りますが)
人生を思う通りにはできないでしょう。
どこかの時点で、必ず、思うように動いてくれない指が出てくるものです。
あなたの人生で起こることのすべて、
この全宇宙で起こることのすべて、
それらはバラバラに存在するように見えて、
全部つながっているのです。
ある特定の部分だけを否定すると、
つまり「自分とは関係ない」と確信してしまうと、
あなたの人生の中に不調和が生まれるのです。
あなたの全身に血液が循環しているように、
あなたの人生すべては、まるで血脈のように過去も現在も未来も並行宇宙もつながって、
あなたに必要なものを運んでくるのです。
人生のある部分、
自分の置かれた環境のある部分を否定的に見てしまうということは、
血流の一部を止めてしまうのと同じです。
止めてしまえば必要な栄養、酸素が行き渡らなくなるように、
あなたの身に起きることもどこかちぐはぐになってしまうのです。
使える指はすべて使いましょう。
それらは全部あなたの指です。
あなたが見ているものは、あなた自身の夢物語です。
「すべては自分の指なんだ」と自覚するよう努力する。
そこからスムーズに流れ始めるのです。
(次回、『自分がすべてをつくっていること』を自覚するときの注意点を補足して書いてみます)