執着を捨てるとは⑤


 

 

【すべてを諦める日】

 

 

 

いつかは形の上では、分離世界のすべてを諦める日はやってきます。

 

誰にでもその日はやってきます。

 

その時は現世かもしれませんし、

 

時間軸に沿って言えば何千年、何万年も先の来世かもしれません。

 

 

 

この世界で大切にしているものすべてを諦める日が来ると聞かされたら、普通の人はネガティブな気持ちになります。

 

 

最初は誰でもそうです。僕もそうでした。

 

しかし、そういう気持ちになることそのものが私たちがいかに分離を信じ、無意識に神を恐れているかの証なのですね。

 

 

もともと私たちがこの世界で大事にしているものは、

 

私たちが本当に欲しいもののイメージとしてつくりだしたものにすぎません。

 

 

 

私たちがこの世界で追いかけ続けているもの、

 

なかなか離そうとしない何かは、最初から本当に欲しいものの代理品でしかないのです。

 

 

 

 

私たちは常に神を探しているのです。

 

神のように無償で愛してくれる誰かを探したり、

 

神と共にいる実相の自分が絶え間なく感じている深い安らぎや、限りなく続く喜び、

 

それらに似たものを無意識に探し続けています。

 

 

 

 

執着する何かを捨てれば、形の上では失ってしまうように見えます。

 

しかし、もともとそれは本当に欲しいものの象徴(イメージ)として投影されているものにすぎません。

 

だから何かを捨てたとしても実際には何一つ失くしてはいないわけです。

 

 

 

 

そうはいっても私たちは失うことを恐れます。

 

自分が信じるアイデンティティ(肉体意識)は、この世界で築いてきたものを失うことを恐れます。

 

     

 

ここでいうアイデンティティとは神の子としてではなく、自我そのものを指します。

 

 

 

自分を肉体と信じるアイデンティティのことであり、

 

神からの分離、他者との分離を信じる信念のことです。

 

 

 

このアイデンティティを失う恐怖と、

 

神への恐れは全く同義語です。

 

     

 

自分が信じる自己を失う恐怖と、

 

神への恐れは別々のことだと考える人もいますが全く同じ意味です。

 

 

だからこそ、この世界で私たちが執着するものすべては、神への恐れそのものという言い方もできるのです。

 

 

神を求めて、神の愛を探して、真実を求め続けて、でも神への恐れ、神からの罰を恐れて、真実よりも模造品にしがみつくという矛盾を続けてしまうのです。

 

 

 

 

 

一つの例として、

 

私たちが失うことを恐れるものの一つに家族などの身近な関係性がありますね。

 

 

 

大切な人を失うこと、

 

孤独になることの恐れが全くない人なんているでしょうか?

 

 

いませんよね。

 

 

 

この僕も当然そういう恐れを持っています。

 

 

 

 

 

 

今、リアルタイムで大切に思う誰か、

 

家族だったり、恋人だったり、親友だったり、

 

あるいは、かつて大切な存在だったけれど別れてしまったり、

先立たれてしまったりして会えなくなってしまった人も、

 

可愛がっていた大好きだったペットも、

 

自分が知っている人すべては、実はすでに《向こう側》にもいるのです。

 

 

 

《向こう側》というのは俗にあの世と呼ばれる世界のことではありません。

 

一般にあの世と呼ばれている世界は、正確には今ここと同様に実態のない幻想世界です。

 

 

私たちは同じ幻想の非物質世界と物質世界を行ったり来たりしている夢を見ているにすぎません。(俗に言う輪廻転生です)

 

 

そこは私たちの本当のゴールではなく、一時的に過ごす場所です。

 

 

 

ここで説明している《向こう側》というのは、

 

輪廻転生という夢の中にはなく、

 

輪廻転生という夢の外側の自分であり、

 

夢の投影を完全にやめた時に、

 

夢の世界は初めから一度も存在しなかったと気づく世界のことです。

 

 

 

 

 

その世界にすべての存在がいます。

 

初めからすべてがそこにいて、

 

すべてが一度もどこにも行ったことがない世界です。

 

 

 

 

そこでは人間の形態はありません。

 

個別化した存在はいません。

 

神に創造された時からずっとすべてが一つです。

 

 

 

 

その世界は僕も含めて肉体意識では全く想像できない世界です。

 

この世界にあるもの(例えば言葉や絵)で、

 

実在の世界を正確に表現することは不可能です。

 

 

 

なぜなら私たちがイメージできるものの多くは肉体で知覚できるもの、五感に関係するものばかりだからです。

 

 

様々な色、様々な形、様々な音、それらを見分けたり聞き分けたりする機能は、

 

それらは自分と他者が分離していることを前提にして備わっている機能であり、

 

分離の信念を維持するための機能という言い方もできるのです。

 

 

 

違いを知覚するための五感を基準に、

 

一切の違いがない世界を正確に理解したり表現することは不可能でしょう。

 

 

しかしそれはこの世界にいるあいだは仕方がないことですし、それで良いのです。

 

説明不可能なことはあっても仕方ないのです。

 

私たちは肉体意識では理解することも説明することも出来ませんが、

 

夢の外にいる本当の自分は全てを知っているのです。

 

神を一度も忘れたことがない自分は今も存在しているのですから。

 

 

 

 

 

あなたが夢から完全に目醒めた時、

 

この世界で知るあの人もこの人も「なんだ、最初から皆んなここにいたんだ」と気づくのです。

 

 

 

 

そして今ここにいるあなた自身も、今リアルタイムで《向こう側》にいます。

 

 

あちらとこちらと同時に生きています。

 

 

しかし、片方は実在し、片方は夢です。

 

 

私たちは分離に信を置いているあいだは、

こちらとあちらの両方に自分がいるとイメージするのが精一杯ですが、

 

実際は向こう側のマインドの一部分で『こちら側で生きている』という夢を見ているだけです。

 

 

 

「自分は一度も神から離れた世界に行ったこともなく、つくったこともなかった」

 

それが夢の終わりです。

 

 

 

そこへ到達するように見えて、ただ夢を取り消すのみです。

 

神からの分離を信じたすべての存在(自分の分身)が夢を見るのをやめた時、

 

“皆んな” という概念も最初からなかったことになるのでしょう。

 

 

 

 

最初から他者なんていなくて、

 

ずっと神の中にいたことを思い出した時、

 

無常の喜びと引き換えに、他者がいるという概念は完全に消えてしまうのです。

 

 

 

 

大切なあの人も、

 

今ここにいるあなたも、

 

実在の世界で、リアルタイムで、活きいきと躍動し永遠に生き続けているのです。 

 

 

 

喜びと安らぎしかない愛の世界です。

 

やがて執着していたすべてを諦めることは、

 

すべてを手に入れることなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

【僕自身の執着】

 

 

 

今のこの僕にも執着しているものはたくさんあります。

 

しかし、無理してそれを諦めようとしても決して上手くいかないんだと思い知りました。

 

最近になってそう悟ったのです。

 

ようやくそれを実体験を通して理解したのです。

 

それまでずっと一日でも早くこの世界への執着を手放し、この幻想世界から卒業したいという切なる願いがありました。

 

 

そう願い続けた結果、

 

自分が長年執着してきたものへの興味は薄れていきました。

 

しかし、それに比例して心はどこか空虚でした。

 

 

その時は、自分の中のこの空虚さは、

 

この世界そのものが空虚であることに気づいたからだと解釈していたのです。

 

 

 

 

僕が執着しているものは、あなたと同じように、

 

特定の人であり、

 

特定のモノであり、

 

特定の行為であったりするわけですが、

 

それらが代理品であり、本当に欲しいものの象徴であると気づけたまでは良かったのです。

 

しかし、長いことそのポイントで止まってしまったのです。

 

 

そこから先、どうすれば本物を手に出来るのか具体的にわからなかったから停滞したのです。

 

 

代理品の代わりに本物を選択する、

 

その意味を本当の意味で理解できていなかったのです。

 

 

 

今思うと、この時点での僕は自我がつくりだす二元性の巧妙な罠に嵌っていたのです。

 

 

 

「目の前にあるものは、どうやら自分が欲しいものに似た象徴らしい」

 

「しかし、幻想の世界に神はいないし、実在の自分もいない」

 

「欲しいものはここではない何処かにある」

 

「ここではない何処かに実在の自分がある」

 

 

 

こことあそこ。

 

こちら側とあちら側。

 

 

 

その概念は二元性を前提にしているわけで、

 

それを前提にしてしまったら、

 

この夢の中にいるあいだは、

 

本当に欲しいものを見ることはできないってことになります。

 

 

 

 

二元性という信念に従うとすれば、

 

この世界(幻想)を完全に解脱してからでなければ、

 

この世界にないもの(実相)は何も得られないという理屈になってしまいます。

 

 

 

 

何かを手放したくてそこから目を逸らす。

 

それを否定してみる。

 

しかし、目を逸らしても別の幻想が見えるだけなのです。

 

 

 

ただ幻想世界と実相世界の違いを理解しようとしたり、

 

誰かに説明しようとする場合は、

 

どうしたって『こちら側とあちら側』というような概念を使わざるを得ません。

 

 

 

その際にハッキリさせておくことは、

 

幻想は最初から実体はなくいつか消えるもの、

 

実相は永遠に残るもの、そこだけです。

 

 

 

二元論はどちらも永遠に存在し続けることを前提にし、

 

一元論は最初から永久に一つであることが大前提です。

 

 

 

 

執着するものの代わりに、本当に欲しいものを手にする必要があると頭でわかっていても、その真理は実体験を伴っていないために真に理解していたわけではなかったのです。

 

 

そうする必要があるんだということだけはわかっていましたが…。

 

 

 

そんな頃、もう興味を失ったと思っていたいくつかのものに久しぶりに触れてみたのです。

そうしたら何だか楽しかったり興奮したりしている自分がいたのです。

 

 

 

それらはとっくに手放したと自分では思っていました。

 

けれど必ずしもそうではなかったのです。

 

 

「執着を手放したから興味を失くしたんだ」

 

「執着しなくなったから興奮しなくなったんだ」と解釈していたのですが、

 

それは自分の思い込みでした。

 

 

 

僕の中で、執着するものを手放せないことに対しての罪悪感を無意識に持っていたのです。

 

 

霊的に早く成長したいという向上心と、

 

なかなかそうはなれないことへの自分への軽蔑が根底にあって、

 

そのことがブレーキをかけていただけでした。

 

 

 

 

いつか全てを諦める日は来ます。

 

僕にも、あなたにも、この宇宙の全てを捨てる日は来ます。

 

しかしそれは見ないフリをすることなんかでは到底たどり着かないのだと知りました。

 

 

 

無理なことをする必要はないのです。

 

無理して諦めようと努力する必要はないのです。

 

 

どういう表現をすれば上手く伝わるのかわかりませんが、

 

そこから目を逸らすのではなく、

 

逆にそれをもっとよく見るってことです。

 

 

 

それを否定して別のものを肯定するのではなく、

 

それはそれで肯定し、そこからさらに良いものを選択していく。

 

 

 

執着しているものが何であれ、それを肯定してもいいのです。

 

しかし、ここでいう肯定とはこれからもずっと今のままでいいという意味ではありません。

 

それそのものに価値があると信じ続けることではありません。

 

 

 

これは、ゆるしのプロセスと基本的に同じです。

 

肉体の目で見える通りに見ないということです。

 

ならば代わりに第三の目で見るという意味でもありません。

 

 

 

先にも書きましたが、

 

そこに何が見えるかは重要ではなく、

 

自分はそこに何を見たいかが重要だってことです。

 

 

 

この場合の見るとは視覚的なことではなく、

 

何を感じようとするのか選ぶという意味になります。

 

 

 

何が見えていても、

 

その時に自分が何を感じるかは自分で決めることはできます。

 

 

 

完全な自由がここにあります。

 

 

 

 

探しているものは、ここじゃないどこかにあるわけじゃなく、常に今ここにあるわけです。

 

 

 

 

正確には今ここのずっと奥にあるのです。

 

今ここに見えている象徴の向こう側にあるのです。

 

「ここにないんだ」と思った瞬間、行き先を見失うのです。

 

 

 

今ここに見えている象徴の向こう側にあるのだから、

 

今ここから目を逸らすことができないわけです。

 

 

 

 

夢を見ている間は、

 

夢の中にあるものを使うのです。

 

 

 

大いに利用して、大いに役立たせたらいい。

 

欲しいものは常に夢の奥にあるからです。

 

 

 

 

この真理は、理解しているつもりでいながら、僕が長いあいだ悶々としてきたことでした。

 

本当に理解していたならそれについて考えこむことはなかったはずです。

 

 

「今は無理して捨てなくていいんだ」

 

 

そう悟った時、心がとっても楽になるのを感じました。

 

楽になるということは、やっぱり無理なことをしていたってことですね。

 

楽になって、なんだか自然と楽しくなってきました。

 

しかし、無理して諦める必要はないと気づいたから以前の自分に戻ったかというとちょっと違うのです。

 

執着してきたものについて以前とは違う感覚になっています。

 

 

 

以前は、

 

「それが無くなったらどうしよう」

 

でした。それが執着心ですよね。

 

 

 

 

今は、それが無くなってしまったら一時的にショックを受けるかもしれませんが、

 

 

「まぁ、いいや」

 

 

という感覚に落ち着くのです。

 

 

 

夢の中で僕が大切にしてきた何かは、

 

今でも僕に何かしらの喜びや安らぎや興奮を与えてくれることに変わりありません。

 

 

 

しかし、目の前から消えてしまってもそれはそれで大丈夫だろうっていう感覚です。

 

 

 

相変わらず「なくなったらどうしよう」と不安になるものも根強く残っています。

 

 

それは、すぐにどうにかしようと考えてはいません。

 

 

とりあえず「そうなんだ。こういうことを恐れているんだな」と認めて、

 

それ以上判断せずにスルーします。

 

 

ジタバタしても事態はややこしくなるだけですから。

 

 

なんとかなっていくだろうと思って、あとはスルーです。

 

 

 

 

 

 

 

いろんなことがだんだん “ほどほど”  になっていく感じです。

 

 

ほどほどに楽しいことがあり、

 

ほどほどに喜んだり、

 

ほどほどに夢中になったり、

 

そんな感じ。

 

 

 

ほどほどに大変なことは起きるし、

 

ほどほどに傷つくことはあり、

 

ほどほどに怒ったり、

 

ほどほどに落ち込んだりもしますが、

 

ほどほどのところで平穏に戻る。

 

 

 

そんな感じの毎日が続いています。

 

すべてがほどほどだなんて言うと何だかネガティブに聞こえるかもしれませんが、

 

日々感情のアップダウンが緩やかであり、基本平穏でいられているってことです。

 

 

 

これが『手放していく』という感覚なんだと実感しています。

 

ここからさらにいろんなものを手放していけば、

 

さらに平穏になり、さらに楽しいという感覚が日常的に増えていくんじゃないか、そう思っています。

 

 

 

『ゆるす』と『執着しない』は全く同義語です。

 

 

 

霊的知識の学びは、

 

何かを読んで頭でこねくり回してわかった気になることが多いですが、

 

実際に霊的知識の学習は思考で完結することはありません。

 

 

 

あーでもない、こーでもないと、

毎日の生活の中でいろいろと実践を繰り返すうちに、学習は完結に向かうのです。

 

 

 

意欲を持ち続けること。

 

 

私たちに求められるのはそれだけです。

 

 

テクニックの問題ではないのです。

 

 

 

 

それは代理品なんだと自覚する。

 

本当に欲しいものについて考える。

 

それについて思うこと。

 

意欲を持つこと。それを願うこと。

 

心から願うことをやめないこと。

 

本物が欲しいという思い。

 

一度きりじゃなく。

 

毎日。

 

毎日。

 

365日。

 

持続的に願う。

 

 

 

 

 

心に抵抗を感じるときは放っておく。

 

何も無理しない。

 

抵抗をなんとかしようとしない。

 

捨てたくない時は捨てなくていい。

 

 

 

 

けれど、いつか手放せる日はやって来る。

 

 

何の抵抗もなく手放せる日は必ず来る。

 

 

誰にとっても、その未来はすでにあるのです。

 

 

これはすでに決まっていることです。

 

 

時間は始まると同時に終わっているからです。

 

 

 

 

 

だから、そのことさえ忘れずにいられるなら、

 

 

一時的に意欲が失せることがあっても、

 

 

また「そうしたい」と思える日は自然にやって来るのです。

  

 

 

 

しかし、全ての象徴は自分が投影した何かです。

 

 

肉体レベルではない自分がつくった何かです。

 

 

だから大切ではないけれど、

 

大切に見なくてはなりません。

 

 

 

それを違った目で見て、

 

違うように感じるしかありません。

 

 

 

 

その大切ではない象徴が、

 

大切な何かを教えてくれるからです。

 

 

 

 

その無意味なものが、

 

本当に意味あるものを見せてくれる入口になっているからです。

 

 

 

 

その入口を正しく解釈することによって、

 

私たちは向こう側に導かれるのです。

 

 

 

 

象徴たちは幻です。

 

しかし、私たちの心の中を投影しています。

 

 

幻ですが、私たちが信じてつくった自分の心の中の風景です。

 

だからあえて慈しむことにするのです。

 

 

 

 

その象徴が何であれ、

 

否定することなく、感謝を捧げましょう。

 

 

 

 

感謝は、愛です。

 

象徴そのものを愛するというより、

 

象徴が教えてくれることを愛するのです。

 

 

 

 

そこにとどまるためにそれを愛するのでなく、

 

そこから先を見るためにそれを愛するのです。

 

 

 

 

たくさん教わりましょう。

 

そのためにもっとじっくり見つめましょう。

 

感じましょう。