執着を捨てるとは④


 

 

【交換の意味】

 

 

執着を捨てるということは、

 

時に物理的にその環境から離れたり、

 

モノであれば実際に捨てたりする必要もありますが、

 

必ずしも物理的な変化が必要という意味ではありません。

 

 

 

捨てたい何かを自分の目の届かないところへ追いやる必要は必ずしもありません。

 

 

執着を捨てるとは、

 

それとは違うもっと良いものを具体的に選ぶということでもありますが、

 

その執着しているものに対しての自分の信念を変えることもまた“執着を捨てる”ということになります。

 

 

それについて再解釈すること。

 

それについてのこれまでの自分の信念を別の信念と交換すること。

 

それが執着を捨てることの本質です。

 

 

 

 

例えば、買物依存を手放すために必ずしもクレジットカードを捨てる必要はありません。

 

恋愛への執着を手放すために無人島で暮らす必要もありません。

 

 

変わらずにそれが身近にあっても、

 

自分の観念が変わってしまえば、

 

それへ過度に執着することなく程々の距離感を保てるようになります。

 

 

 

 

同じ環境に居続けたとしても、

 

同じものが目の前に変わらずにあり続けたとしても、

 

執着を手放せることはできるということです。

 

 

 

この幻想世界で手に入れられるものはイミテーション。

 

形あるものは一時的な代用品です。

 

だから、それをリアルなものと交換していくのです。

 

 

リアルなものとの交換は、

 

自分が本当に求めているものは何なのか気づくことから始まります。

 

 

 

 

先にドラッグ依存を例にとりましたが、

 

ドラッグを手放すためには自分はドラッグに何を求めているのかを最初に気づくことが大前提です。

 

そこからドラッグの代わりになってくれるものへ、

 

本当の意味で自分のニーズを満たしてくれるものへ意識をチェンジしていくのです。

 

 

 

ハイヤーセルフ(聖霊)は、

 

あるいは神と言ってもいいのですが、

 

いわゆる高次の存在は、常に私たちを責めることはありません。

 

 

「あれをするな」

 

「これをするな」

 

 

とお説教することはありません。

 

 

私たちを見守る存在が常に私たちに問いかけることは、

 

 

 

 

『そうしているあなたは本当に幸せですか?』

 

 

 

『あなたが本当に幸せになりたいなら、もっとこんな方法もあるのですよ』

 

 

 

 

といったことです。

 

 

 

あなたが何に執着していたとしても、

 

神はあなたを責めたことは一度もないですし、これから先も絶対にありません。

 

 

 

幻想の中で何にしがみついていても、それ自体は重要ではなく意味はないからです。

 

だからあなたを咎めることは決してありません。

 

 

 

私たちを見守る存在の関心事はただ一つ。

 

『あなたが幸せなのかどうか』

 

それだけです。

 

 

 

 

本当に幸せなら何も変える必要はありません。

 

幸せなら何も捨てる必要はありません。

 

 

 

しかし、心から幸せと言えない状態なら変える必要があるのかもしれません。

 

 

神は、あなたが求めようが求めまいがあなたを助けます。

 

 

あなたが幸せになりたくて執着の一つを手放したいと願うなら、神は無条件の愛をあなたに差し向けるでしょう。

 

 

あなたが代わりのものに意識を向けられるようサポートするでしょう。

 

交換は、物理的な交換という意味がすべてではありません。

 

交換は心の中で行わなければ意味はありません。

 

 

 

ドラッグを瞑想に置き換えていくことは、ある意味においては物理的行為であり、

 

瞑想という道具も物理的な交換に含まれるといえなくもないですが、

 

大切なのはその道具がどんな目的で使われる道具なのかということです。

 

 

苦しみを一時的に誤魔化すために利用し、苦しみをさらに深くする道具なのか、

 

あるいは神と繋がって、

 

苦しみそのものを根本から無くすことを目的にしている道具なのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

【執着しているものを否定しない】

 

 

 

交換とは、形ある幻想の中から、形のない実在を見つけだすことだという言い方もできます。

 

 

どういうことかというと、

 

形あるものの中に、

 

それは人間であったり、

 

他の生き物かもしれないし、

 

モノや現象だったりするわけですが、

 

自分が執着するそれらの中から実在を反映している要素を見つけだすことです。

 

 

 

 

肉体もモノも形あるものは神が作ったものではなく、

 

私たちのマインドの中の自我がつくりだした自我による信念でつくられた象徴の数々ですが、

 

私たちは神の子であるが故に、

 

私たちの自我がつくりだした夢の中にも、神を想起させる象徴が隠れていたりします。

 

 

 

例えば、ふと足を止めて見入ってしまう風景の中に、

 

人や自然界がつくりだしたものの中に、

 

誰かの行動や言葉の中に、

 

神の荘厳さや神の力強さを感じたり、

 

神の愛を感じさせるもの、

 

深い安らぎを思い起こさせてくれる何かがあったりするかもしれません。

 

 

 

混じり気のない無邪気な美しさに触れた時、

 

本当の私たちとはどんな存在なのか、一瞬でも感じ取れたりするかもしれません。

 

 

 

厳密に言えば、この宇宙に神や実在の要素を一つも持ち合わせないものは存在していません。

 

これとこれは神を反映しているけれど、

(神を想起させるもの、神の子である本当の私たちを反映させる要素)

 

あれとあれは何もなくてただ自我だけを反映している、

 

というようなことはないのです。

 

 

あるものはあるものよりも、

 

より強く、より多く反映されているという違いはあるかもしれません。

 

 

 

私たちに見えているものは、

 

神を反映するものと自我を反映するものの二つがあるように思えます。

 

 

 

しかし、二つのカテゴリーに分けられるものは一つもないのです。

 

荘厳な美しい風景の中にも実在の反映と自我の反映とがあり、

 

道端に落ちている石ころや犬の糞にも神と自我の二つの要素が隠れているわけです。

 

 

 

そこにどちらが見えているか、ではなく、

 

そこにどちらを見ようとするか、が大切なのでしょう。

 

 

 

言い方を変えれば、

 

どちらを感じ取ろうとするか、ということです。

 

 

 

自分が執着しているもの、

その中にも神や実在といった象徴が見つけられるということです。

 

 

 

否定すると同じところに留まります。

 

より良いものに選択し直すだけでいいのです。

 

 

 

執着しているそれを否定的に見るのをやめて、

 

それまで一時的であっても自分のニーズに応えてくれていたものに精一杯の感謝を贈るのです。

 

 

そして、それを通して自分が本当は何を求めていたのかに気づくことです。

 

 

それは良くも悪くも代理品にすぎないわけですから、

 

代理品の代わりに本物を手に入れようと意識を変えることです。

 

 

 

そのための方法を、それを知る幻想の外にいる存在に求めることです。

 

 

 

 

★要点をまとめてみます。

 

 

 

🔳  執着しているものを否定的に見て、執着している自分を責めて、

 

無理やり何かを諦めようとしても決して上手くはいかない

 

 

 

🔳 執着を捨てることは、それは本当に欲しいものの象徴にすぎないと気づくこと

 

それは一時的な代用品であると悟ること

 

それの代わりに、もっと素晴らしい本物と交換することで執着は消える

 

 

 

🔳  執着を手放すことは、必ずしも物理的に手放す必要はなく、多くはそれについての解釈を変えればいいということ

 

ドラッグ依存のように法律に触れたり、

 

自分や誰かを傷つけてしまうことにつながる執着の場合は、

 

自分が本当に欲しいものは別にあり、

 

何も苦しまず、

 

誰も傷つけなくとも違うものを手にすることは可能だと観念を変えること

 

 

 

 

 

究極の言い方をすれば、

 

全ての執着を捨て去ることは、

 

何一つ失うわけではないといっていいのかもしれません。

 

 

 

 

だから恐れることはないのです。

 

そういう確信に自分が一歩一歩近づくたびに、

 

執着するものは、ごく自然に、一つ一つ自分から離れてゆくことでしょう。