執着を捨てるとは③


 

 

【代わりになるものを選びましょう】

 

 

私たちは自分が信じているものに意識を向けています。

 

意識的に信じようとするものもありますが、

 

大概は無意識に『これこれはこういうものなんだ』と信じているものばかりです。

 

 

 

私たちのマインドは体の中にはありません。

 

本当は体の外で体に入っているという夢を見ているにすぎません。

 

その夢の内容は自らが信じているものに忠実です。

 

夢の中のすべては自分の隠された想念の通りになっています。

 

 

 

あなたが今苦しみの夢を見ているとしたら、

 

「自分の人生とはこういうものだ」

 

「自分はもっと苦労しなくてはならない」

 

「自分をもっと苦しめてみたい。自分は喜びや安らぎには相応しくないから」

 

そういう誤った信念を顕在意識では気づかぬ場所で持ち続けているからです。

 

夢の中にあるものは基本的に実体のない幻想であり、

 

幻想だからこそ、それが何であれ意識を向け続けるとそれは自分の人生にベッタリとへばりつくことになるのです。

 

 

 

執着している幻想に意識を向けたくなければ【実在するもの】に意識を向け続けるしかありません。

 

 

ただ目を背けてもそれは消えてはくれません。

 

例えばテレビで見たくない番組が放送していたとします。

 

見たくないならチャンネルを変えるか、電源オフにするでしょう。

 

 

 

しかし、幻想という名のテレビは電源オフにはできません。

 

オフにできる時は、

 

完全に本来の自分に目覚め、

 

完全に夢の世界と決別した時(輪廻転生の夢から解脱した時)でしょう。

 

 

 

その時までは何らかの番組を見なくてはなりません。

 

電源が切れないなら他のチャンネルを選ぶしかないのです。

 

 

 

 

別れた恋人が忘れられず苦しむ人はどうしたら良いでしょう?

 

一番良い方法があります。

 

別れた恋人よりもっと良い人に出会うことです。

 

そうすれば前の恋人を忘れられます(笑)

 

 

 

 

何かを捨てるということは、

 

代わりになる何かを選ぶということです。

 

 

 

代わりになるものが見つからぬまま何かを捨てようとすれば心は空っぽになってしまいます。

 

(本当に空っぽになるわではないですが‥)

 

 

 

もともと心が空っぽになることが恐くて何かに執着しているわけですから、

 

捨てる前に代わりになるものを見つけなくてはなりません。

 

 

 

断捨離は捨てているというより正確には、

 

身の回りのものを整理して得られる爽快感、心の静けさを選び直したのです。

 

そちらのほうが心地よいのではないかと信じて違うものを獲得したのです。

 

 

 

 

大切にしてきた何かを捨てるには代わりになる何かが必要です。

 

私たちは常に何かを信じなくては存在できないように出来ています。

 

何一つ信じずに生きることは絶対に不可能です。

 

自分の信念に基づいて自分の経験をつくりだしているのですから。

 

 

 

「私は何一つ信じられずに生きてるよ」

 

と言う人がいるかもしれません。

 

 

しかしその人は、

 

「この世界で信じられるものはないはずだ」と信じているにすぎず、

 

本当に何も信じていないわけではありません。

 

 

自分にとって価値があると信じるものを引き寄せ、

 

自分とはこんな存在だと信じて毎日を生きています。

 

 

 

執着しているものより、

 

代わりのものの方がはるかに自分を幸せにするという確信が持てるまでは、

 

執着しているものは捨てられないのです。

 

 

 

だから代わりのものを信じられるようになるための当人の意欲、努力といったものは必要になってくるでしょう。

 

 

執着している幻想のものの代わりに別の幻想のものを手に入れたらどうでしょう?

 

例えば違法薬物を断つために合法の薬物を使う場合はどうでしょうか。

 

前にあったものを捨てられて心は楽になるかもしれませんが、それも一時的です。

 

 

自我は、私たちの意識を幻想世界につなぎ留めておくために別の幻想を与えます。

 

だから、苦しめられた幻想の代わりに別の幻想を手にしても、

 

今度はその新しい幻想に依存してしまうのもかもしれません。

 

(合法薬物がいけないという意味ではありません)

 

 

 

だから、これは簡単にはいきませんが、

 

最終的には、

 

執着している幻想の向こう側に、

 

本当に欲しいものが、

 

自分にとってもっと価値あるものがあるのだと信じられたとき、

 

だんだんとそれに固執しなくなってゆくのだと思います。

 

 

 

 

いきなりそう信じることは難しいでしょう。

 

だから最初は「それを見たい。それを手にしたい」という意欲があればそれでいいのです。

 

 

意欲を持続させること、

 

私たちがまず出来ることはそれだけです。

 

 

 

執着を剥がすプロセスは穏やかで良いのです。

 

苦行は必要ないのです。

 

この世界のものに激しく執着するのは私たちの自我です。

 

自我はダダをこねて柱にしがみついて離れない子供のようです。

 

無理やり引き離そうとしても子供は意地になってますます離れなくなりますね。

 

そんな子供はどうしたらよいでしょう?

 

 

 

「早くおいで。もっと良いものあげるよ」 

 

「こっちのほうがもっと楽しいよ」

 

 

そうやって代わりになるもっと良いものを用意するしかありません。

 

子供にそれを信じさせることができたなら、子供はしがみついている手をパッと離します。

 

 

 

犬を飼っている人もわかると思います。

 

愛犬があなたの大事な靴下を咥えて離さないときどうしますか?

 

無理やり取り返そうとしても愛犬は絶対に咥えた靴下を離しませんよね。

 

でも、大好きなおやつを見せればパッと離してくれます(笑)

 

 

 

 

私たちの肉体意識も同じです。

 

目の前の幻想よりも、

 

それ以上に素晴らしいものが用意されていると確信できたとき自然に手が離れます。

 

 

 

代わりのものに意識が向かない間は無理して諦めることはありません。

 

しかし、永遠に手放さずにいられるわけでもありません。

 

なぜなら、私たちが「捨てたい」と感じる何かは、

 

喜びと同時に苦しみも与えているからです。

 

 

 

苦しみがそこに含まれ、

 

喜びよりも苦痛が上回っていくうちにそれを捨てたくなるわけです。

 

 

 

 

あなたにとって何も苦しみを与えず、

 

喜びや安らぎしかあなたに与えないものなら、たとえ幻想でも手放す必要は全くありません。

 

喜びや安らぎといった感覚は、

 

実在の自分が持ち合わせている感覚ですから、

 

それが苦しみに変わらない限りは、わざわざ捨てる必要はないのです。

 

 

 

 

仮にドラッグ依存という状態を、

 

嫌な何かを忘れるために固執しているという解釈ではなく、

 

本当に大切なものを思い出したいという『希求の象徴』であると解釈しなおすとします。

 

 

そうならば、

 

もっと平和的な象徴、

 

もっと穏やかな手段があるはずだと信じることから始めてみてはどうでしょう。

 

 

 

例えば瞑想です。

 

本当に深く瞑想できるようになった時、

 

日常的に瞑想を自分のものに出来るようになったならば、

 

ドラッグとは違う至高の体験が出来ると思います。

 

 

 

 

もちろん日常的に瞑想をしたら、

 

それだけで神を思い出せるとか、

 

それだけで自分のレッスンが完了するわけではありませんが、

 

少なくとも以前よりは自我に振り回されにくくなっていきます。

 

 

 

瞑想という行為そのものも、幻想の中にあるものの一つではありますが、

 

自我にどっぷり浸かった状態からほんの一時でも抜け出して、

 

本来の自分(聖霊、ハイヤーセルフ)と繋がりやすくなるための手段として大いに役に立ちます。

 

ドラッグでしか自分を救えないという観念を少しずつ変えていける方法として、

試す価値は大いにあるのではないでしょうか。