【無理をすると逆効果に】
極論ですが何かに執着することが悩みの原因になっています。
何かに対する強い執着心がさまざまな苦しみの根幹にあると多くの宗教で繰り返し説かれてきました。
「執着を手放せば苦しみから解放される」
そう思って仏教などでは世俗を絶ち切り山に籠もったりするわけですがどうでしょうか。
籠もっているあいだは、世俗の雑事や、人間関係から切り離されて非日常の世界に意識を向けていられます。
しかし、修行を終えて山を降りた後はどうなるでしょう?
執着していた日常から離れて、非日常の世界に行けば、
確かに執着は剥がれやすくなるかもしれません。
しかし、元の生活環境に戻ったとき、
再び同じ状況下に置かれたとき、
大抵の人は元の状態に戻ってしまうのではないでしょうか。
そういった修行を繰り返すことで少しずつ執着は薄れることはあるとは思いますが、
物理的な状況を変えることで心を変えようとしても、一時的に終わってしまう場合が多いのではないでしょうか。
『俗世にあって俗人になるなかれ』
イエス・キリストの言葉です。
俗世に身を置きつつ、心だけは俗世に埋没してはいけない。
私たちが見ているこの世俗は幻想ではありますが、
世俗を断ち切るために世俗から目を背けるのではなく、
世俗の中に浸かりながら、意識だけは実相世界に向けていること。
目の前の出来事、
目の前の誰かから目を背けることなく、
かといって目の前のものに振り回されることもない状態。
それが私たちの目標といえるのかもしれません。
この世界は全てが幻想で出来ていますから、
基本的には、幻想に固執することは自我であり、罪悪感です。
しかしこの世界の何かを大切に思うことはまったく問題ありません。
このページでお話ししたいことは、
【大切に思うこと = 執着すること】 ではないということです。
ここでいう執着は、
『そのものに執着することで自分に苦しみをもたらしているもの』
についてです。
『それが無くなることをとても恐れているもの』
という言い方もできますが、無くなると不安に思うものについては私たちはあまりに多くのものが該当しますので、このページでは省きます。
罪悪感が薄れていくにつれ、それと比例していろんな執着が自然と剥がれてきます。
肉体には失ったら困るものがたくさんあります。
でも本来の私たちであるスピリットにとって何かを失うという経験はしません。
しかし、夢の世界にいる間は肉体が何かしら欲するのは仕方がありません。
食べるものであろうが、
着るものであろうが、
住まいだろうが、
お金や仕事だろうが、
娯楽だろうが、
自分や誰かの肉体であろうが、
幻想から完全に離れるその日までは、肉体のニーズを完全に捨てることは不可能です。
それはそれで仕方ないのです。
肉体の欲すること、それらは良いことでもないですが悪いことでもありません。
大切なことは、
何かに執着している状態そのものに罪悪感を持たないことです。
執着していることは良いというわけでも、悪いというわけではないのです。
この世界のものはあらかじめ特定の意味を持っていないだけです。
肉体も、
宇宙そのものも、
幻想であるがためにやがて消えてしまう未来がすでに存在するからです。
この幻想世界に永遠なものは一つもなく、
よって時間の夢、一時的な夢で終わるのです。
執着を捨てるために無理をすると逆に執着は強くなっていきます。
執着を断ち切ろうと葛藤し、もがいている時点で執着を促す自我の思惑通りです。
自分が強く意識を向けたものを実体化させます。
意識的であれ無意識であれ、
自分が強く信じているものが繰り返し自分が見るものになります。
執着している何らかの幻想を、実在していると信じているからこそ葛藤するわけです。
葛藤するほど手放したいものに意識を強く向けています。
そうやって本当は実在しないものへの信念を強化してしまうわけですから、葛藤することは逆効果になってしまうわけですね。
ちなみに僕も「捨てよう、捨てよう」として捨てられたことは一度もありません。
《自分の執着の強さ=自分の信念の強さ》
です。
自分にとってそれは必要不可欠だと信じているわけです。
それが自分の幸せや安らぎ、生きる原動力になるという信念があるということです。
それが自分にとって本当に幸せだけを与えてくれるものならわざわざ捨てる必要はありません。
重要なことは、その自分を幸せにしてくれるはずのものが同時に苦しみを生み出す原因になっているかどうかです。
苦しみをもたらしているのなら、なんとかしなくてはなりません。
だから捨てたいと人は願うわけです。
そんな時、
まずはそれに執着している自分を責めないことが重要です。
良いも悪いもないのです。
最初は、
「今の状態は、自分が心から望んでいる状態ではないんだ」
と気づくだけでいいのです。
(次回へ続く)