この世界は私たちのマインドで見ている夢です。
そして、私たちの体もまたマインドでつくられた幻想ということになります。
私たちはどうしても
「自分の肉体」を、
「他人の肉体」を、
【真実】として見てしまいます。
相手のことをスピリットとして見ることがなかなかできません。
自分自身のこともスピリットとして見ることはなかなかできません。
私たちが見えているものは簡単には変わってくれません。おそらく一生肉眼で見えるものは変わらないでしょう。
自分の肉体、他人の肉体は私たちの目に映り続けるでしょう。
しかし、肉体の私たちが唯一変えられるものがあるとすれば、物理的見え方ではなく『感じ方』です。
「こう見えているから、これはこうなのだ」
ではなく、
「これはこのように見えているけれど、本当はこうじゃない」
というように変えることは可能です。
これまでは、「見えているもの=真実」という反応をくり返してしまってきたわけです。
この反応を、新たに訓練を続けてゆくことで変えていきます。
「肉眼で見えているもの」に対して「心の反応」を完全に逆転させることはできるのです。
イエス・キリストの肉眼には老人の肉体は見えていても、「相手が本当に老いている」とは感じませんでした。
イエスの肉眼には病人の肉体は見えていても、「相手が本当に病気をしている」とは感じませんでした。
この幻想世界は、【自分の信念が投影された世界】です。
マインドで自分が信じているものを、
あくまでも自分の視点で形作る【完全な自己中心的世界】です。
イエスは相手が病気になることは絶対に不可能だと100%確信していました。だから病人の病を次々に治癒させてみせたのです。
イエスが見ていた夢は、イエス自身の信念の投影だったからでした。
同じように、残虐非道な人間を見ても、その相手の肉体を自らの肉眼で見ながらも、
相手のことを「純粋無垢で『神』に創造されたままの『美しい神の子』」としか感じられなかったのです。
だから自分に鞭打つ者、自分を裏切る者、自分を十字架にかけた者たちを完璧にゆるすことができたのです。
私たちがやるべきことは、
「自分という人間はどう見えるのか」
ではなく
「自分という存在をどう信じるのか」
なのです。
自分への感じ方を変えられれば、
自動的に他人を見るときの感じ方も変わります。
他人への感じ方を変えられれば、
自動的に自分を見るときの感じ方も変わります。
なぜなら自分と他人は本当は一つだからです。
この宇宙に存在するのは、本当は何十億の人間、何千億の生命ではなく、
たった一人の『神の子』なのです。
自分という存在をどう見たいのか……
他人という存在をどう見たいのか……
見えたままに感じ続けて、いつまでも幻想に囚われていたいですか?
それとも、見えるものとは逆さまに知覚できるようになって『実在』に近づきたいですか?
どうしたいかはあなたの自由です。
これから、自分自身のことを、自分以外の人間のことを、
「こう見よう! こう見るんだ!!」という決意、意志が、あなた自身にあるかどうかにかかっています。
ここからメソッドに入ります。
最初に、これからは自分自身を、『本当の自分』として見ると決めてください。
同様に他人のことも『本当のその人』として見ていくと決めてください。
そう決断できる人だけ、このメソッドを実行してください。
(それ以外の人にとっては時間の無駄になります)
肉体は幻想です。
たとえるなら、肉体は「着ぐるみ」のようなものです。
自分の体も『本当の自分』ではないし、他人の体も『本当のその人』ではありません。
マインドが『本当の自分』に着ぐるみを着せている状態、それが肉体であるとイメージしてください。
あなたのマインドは、
自分の本当の姿を隠すために自らに着ぐるみを着せ、
他人の本当の姿を隠すためにその人に着ぐるみを着せて、『本当の自分たち』を忘れようとしてきたのです。
『神』から罰せられることを恐れ、『神』から逃げるために、「着ぐるみ」で自分と他人をつくりだしたのです。
「着ぐるみ」を着ているあいだは、自分たちが『神の子』であることを忘れていられるからです。
だから、自分の着ぐるみと他人の着ぐるみを脱がすのです。
一人きりで静かになれる時間を選んで、鏡の前に立ってください。
そして自分の姿をじっと見つめてください。鏡がないなら、自分が映っている写真を見つめてもいいです。
そこに映っているのは『本当のあなた』ではありません。
そこに映るのは人間の形をした「着ぐるみ」です。
それは『本当のあなた』ではなく、肉体意識が自分自身と信じ込んでいる姿であり、あなたは肉体ではありません。
ゆっくりとその着ぐるみを脱がしていくことをイメージしてください。
頭のてっぺんからズルズルッと引きずりおろしてもいいですし、自分の体がどろどろに溶けてゆくのをイメージしてもいいです。
着ぐるみがだんだん消えてゆくと、中から美しく眩しい光が木漏れ日のように見えてきます。
その光はすべての色を含んだ完全な光です。
それは、強力な力を秘めた光であり、すべてを癒せる力をもった壮大な光です。
その光の中にこれまで欲しいと感じていたすべての力があります。
その光の中にこれまで欲しいと思ってきたすべてをゆるせる《愛》があります。
着ぐるみが剥がれ落ちるにつれ、あなたの肉体は完全に姿を消します。
そして、あなたはその完璧な美しさをもった光そのものに変わります。
光であるあなたと、周囲にあるものに境目はありません。
あなたが放っている神々しい光が周囲を明るく照らしています。
これは『本当のあなた』のイメージです。「着ぐるみ」はあなたではありません。
同時に、あなたの周囲の人たち、他人もまたあなたと同様に『美しい光の存在』です。
あなたはこれまで、
「人それぞれ進歩は違う。だから魂も同じではない。美しく偉大な魂もあれば、恐ろしく醜い魂もあるに違いない」
と信じ込まされてきたかもしれません。
あなたに見えているあらゆる【違い】は「着ぐるみの一種」です。
【違い】のすべては、エゴが見せている幻想です。だから他人の着ぐるみも脱がしていきます。
こういう「着ぐるみ」なら、
脱がすのは簡単かもしれません。
こういう愛すべきキャラクターであれば、その下から美しい光が現れることを簡単にイメージできるからです。
では次に、こういうキャラクターならどうでしょうか?
恐ろしいですか? 笑
あなたの周囲にこういう人はいるでしょうか?
あなたが憎くてしかたない人、
あなたがついつい嫌悪してしまう人、
その人はあなたにとってこんなキャラクターに見えているでしょうか?
あなたが関わる「憎憎しい人」、「恐ろしい人」、「軽蔑の対象でしかない人」、
その人たちもまた本当は「着ぐるみ」を着ているだけの『完璧に美しい光』です。
その人たちにそのような着ぐるみを着せてしまったのは、その人自身です。
そして、その人にそのような着ぐるみを着せたのは【あなた自身】でもあります。
なぜなら、マインドは本当はたった一つしかないからです。
あなたが見ているものは、あなたがマインドで信じているものです。
「こういう人がいるのがこの世界なんだ」
「この人は本当にこういう人物なのだ」
そういうあなたの頑なな信念が、あなたのマインドに(相手のマインドにも)しっかりと根付いているのです。
相手の「着ぐるみ」を作ったのは【あなたの信念】です。
だから誤って相手に着せてしまった「着ぐるみ」をあなた自身で脱がしてあげましょう。
その人が目の前にいなければ、その人の写真でもいいです。それをじっと見つめてください。
写真がないなら、目を閉じてじっとその人を思い出してください。
相手がこんな顔(↑)をしていても大丈夫。
相手の姿全体を見ずに、相手の目に意識を集中してください。
相手の目の中心だけをじっと見つめてください。
相手の瞳の色(虹彩)だけに集中してください。(目全体、顔全体の印象に騙されないためです)
自分の着ぐるみを脱がしたときと同様に、その人の着ぐるみを脱がしてみてください。
同じように、ズルズルッと着ぐるみが脱げてくるたび、その人の中から、あなたと同じ眩い光が顔を出してきます。
その光はすべての強さをもった『愛の光』です。
あなたのすべてを癒してくれる『神の光』です。
あなたがこれまで探してきたもののすべてがその光の中にあります。
あなたがずっと見たいと思ってきたものが、あなたが憎くてしかたがなかった人の中に隠れていたのです。
テレビのニュースで見た凶悪犯もこんな顔をしていたでしょうか?
これもまた着ぐるみです。
あなたのマインドが、他の『神の子』に着せた着ぐるみです。
だから脱がしてあげてください。
相手の中から現れた『強力な愛の光』は、そのまま『神の光』でもあります。
あなたは相手の着ているものを脱がせることで、『神の光』に触れることができます。
「自分の中の光は信じられるけど、他人の中の光は信じられない……」
これはあり得ないことです。
どちらか一方だけを信じて、どちらかを信じないことはできません。
なせなら、あなたが見ているものは常に【あなたのマインドの中の投影】だからです。
あなたと相手は本当は一つです。
相手の姿は鏡に映るあなた自身です。
よって、鏡の中に映るものが「恐ろしく醜いものでしかない」のであれば、
あなたは、自分自身のことも同じような存在だと信じていることになります。
けれど、肉眼で見えているものは真実ではなく、着ぐるみにすぎないということを信じられるようになれば、
恐ろしい着ぐるみはそのままですが、あなたはその着ぐるみを「愛おしい」と感じられるようになります。
だって、その着ぐるみの下にすべての美しさをもった光が、宝石の何万倍も美しい『神の光』が隠れているからです。
それを「脱がす」という決断をしてください。
「真実を見よう」と決断をしてください。
その決断こそが、幻想を卒業するためのスタートなのです。