ゲストさんからの質問②

ゲストさんから頂いた質問にお答えしています


【Q】 

私は数年前から視界にキラキラ光が見えて、その後偏頭痛が起きてこめかみが痛くなり、気分も悪くなって吐いてしまうという症状で悩んでいます

最近も何度か起きていて、あまりひどくならずに済むこともあるのですが、今朝もひどく頭が痛くなって吐いてしまい、とても辛くなってしまいました

偏頭痛ではないときも、肩がこったり少し気分が悪かったり、体調の優れないことも多いです

仕事をしていたけど精神的ににきつくて辞めて、今は家にいます

精神的に不安定なときもあるけれど、偏頭痛が頻繁だと、なんだかボロボロになってしまいます

自分の中に罪悪感とか何かしらあって、身体を痛めつけてしまうのかなとか、自分の心や身体やすべてに愛を伝えているつもりだけれど、まだ責める気持ちがあるのかなとか、色々考えています

何か、こういう風に意識を持ったらいいのではないかなど、光汰郎さんからみて思うところがあったら教えていただきたいです

長々とすみません


 

【A】

 

ずっと続いてるなんて辛いですよね。

 

僕はお医者さんのように『体の中で何が起きているか』という視点ではわかりません。

僕がお話しできることは『体の外で何が起きているか』というスピリチュアルな視点だけです。

 

だから僕の言うことが正しいということではないですし、抽象的なお答えになってしまうかもしれませんが、

気楽な気持ちで参考にしてもらたら嬉しいです。

 

カウンセリングだといろいろ根掘り葉掘りお聞きするのですが、今回はご質問を読んだ印象をザーッとお話ししていきます。

 

 

 

 

 

今、この世界であなたが肉体として見ているもの、肉体として経験するもののすべては、

肉体の外側にあるマインドの中を象徴的に表しています。

 

起きること、見るもの、それらはマインドの何らかの象徴なのです。

コレとコレが象徴というわけではなく、

自分が見るもの聞くものすべてです。

 

光を見て吐き気がする。頭痛がする。何もできなくなって立ち止まってしまう。

この一連のパターンも象徴です。

 

 

光は何の象徴でしょうか。

 

光は『神の導き』、『聖霊(ハイヤーセルフ)』の象徴であり、

違う言い方をすれば、『本当のあなた』の象徴でもあります。

 

こういう光をよく見るとかいう現象は医学的に見たら生理現象とか何らかの病気だということになるのかもしれませんが、

僕から見たらそれが何であれ象徴であることに変わりありません。

 

光が頻繁に見えたりするのは、スピリチュアルな目覚めのプロセスに入った人によく起こることです。

 

『光の導きに従ってください』

というニュアンスでもあり、

『あなたはちゃんと守られていますよ』

というサインだと解釈することもできます。

 

『本当の自分』とはどんな存在なのか、そういうことに関心を持ち始めた時期、

あるいはそろそろ目を向け始めた方が良いかもしれないという時期に起きやすいです。

 

 

 

しかし、光を見ると吐き気がする、頭痛がする。

これはあなたが潜在的に光に抵抗しているということです。

 

つまりあなたは光を求めながら光を怖れている。

 

『神』にすがりたい、『本当の自分』として生きて幸せになりたい、そう思う自分と、

そうなることを怖れる自我としての自分がいるということです。

 

 

簡単にいうと、自我(エゴ)としての自分は『本当の自分』とはどんなものなのか、それを思い出してしまうと自分という存在は消えてしまうという怖れを持っていますからブレーキをかけてくるわけですね。

 

誰にでも多かれ少なかれこういう抵抗はあるのですが、抵抗が具体的にどういう現象として現れるのかについては個人差があります。

人によって体の不調であったり、人間関係、経済的問題、事故、抵抗の象徴はさまざまです。

 

霊的進化に意欲的な人ほど抵抗は強くなる傾向がありますね。

 

 

光が現れると潜在的に「あっ、怖い」と感じたり、

 

「なにか違う自分になってしまうんじゃないか」

 

とか

 

「今の私は胸を張って神の前に立てる人間じゃない」

 

「今の私は神に造られたままの私ではない」

 

自我としての自分がそういう観念を持っているわけです。

 

 

 

【光を見たい自分、けれど光を怖れギュッと目を瞑ってしまう自分】

 

 

 

 

確かにマインドに潜む罪悪感が病気を作り出します。すべての人に共通する原理です。

【罪悪感=自我】です。

それに気付くこと、それを自覚することは最初の一歩です。

人によっては、気付くだけで好転する場合もありますが、罪悪感はなかなか根強いので厄介です。

 

 

ここで注意すべきことは、罪悪感が病気をつくりだしたのに、病気になったことそのものに罪悪感をもってしまうことです。

 

「病気になることはネガティブなんだ」

 

「病気になってしまうのは自分がスピリチュアルな進歩ができていないからだ」

 

そんなふうな思いグセがあると症状はさらに悪化してしまいます。

 

 

 

罪悪感に気づくことは大事な一歩ですが、罪悪感を持つ自分に罪悪感を持ってしまったら本末転倒です。

 

これはエゴの周到な策略です。

 

ミイラ取りがミイラになるようなものです。

 

罪悪感の無限ループです。

 

 

罪悪感は、毎日毎日しつこく浮かび上がってくるものです。

 

罪悪感というものは、『本当の自分』の中には最初からどこにもないのですが、

肉体意識の私たちは「自分のなかにそういうものがあるんだ 」という間違った観念を元にした夢の中にいるのです。

 

間違った観念を取り消すには、

間違った観念が投影するものを、

それが本当は存在していないがゆえに笑ってやり過ごすしかありません。

 

根気強く、楽観的に見過ごしていくしかありません。

 

簡単にいきません。

でもそれを繰り返していかないとちっとも楽にはなれないのでやるしかありません。笑

 

取り消されていくたび自分の中が軽くなってきます。

本当の自分が何なのか、その記憶をちょっとずつ思い出していきます。

 

 

愛するとは

『何も条件付けをしない』 ということです。

 

他人を愛することも、自分自身を愛することも、愛し方は同じです。

 

今の自分が床に伏せっていようが、やりたいことができない状況だろうが、

進歩が遅れていようが、自分が今どういう状況であったとしても、それを自分を愛さない理由にしてはいけないってことです。

 

このまま病のままでいい、辛い状態をガマンすればいいってことではないですが、

本当の意味で自分を愛するということは、神が愛するように自分や誰かを愛していくということです。

 

愛は決して“責めない”のです。

 

あなたはあなたなりに自分を愛そうと努力しているのでしょう。

でもやっぱりまだまだ自分に条件をつけているのです。

まだまだ自分に厳しいのです。

こうしなければならない、こうでなくてはいけない、そういう厳しさが残っているのだと思います。

 

 

 

僕が最初にあなたの質問を読ませていただいた時に、あなたについて浮かんだイメージは、

激流に流されまいと必死に岩にしがみついている姿です。

 

 

 

 

 

もちろん、このイメージも象徴でしかないのですが、

わかりやすくいうと、今の状態が始まった頃、あなたは何か新しいことを始めたいと思っていたのかもしれません。

それは新しい仕事なのか、趣味なのか、仕事とも趣味とも違うお金にもならないけれど興味のあることかもしれません。

あるいは引っ越しして別の土地に行きたかったのかもしれません。

 

何かしら違う環境に進みたいと思いながら躊躇していた状態だったのかもしれません。

 

その新しい環境に行くことは、長い目で見て、あなたが『本当の自分』に近づいていくために必要なプロセスなのだと思います。

そういう時に自我が抵抗してブレーキをかけてくるわけですが(あなたの場合は肉体の不調)、

こういう時に自分の感情によくよく注意してほしいのです。

 

ブレーキをかけられて悔しいとか辛いと感じる自分と、

ブレーキをかけられてどこかホッとする自分がいたりするのです。

 

つまり病気になることで先へ進むこと(本当の自分に目覚めること)を遅らせることができるわけです。

悔しいとか辛いとか感じるのもマインドに潜む自我ですが、

ホッとするのもまた自我なのです。

 

 

ブレーキがかかった時は、体の不調を良いとか悪いとか考えず、

 

「先に進むのが怖いんだな。これが罪悪感なんだな。ふーん、なるほどね」

 

くらいで考えるのを止めて、それ以上、感情的に何も反応しないことです。

 

 

 

 

 

 

激流に流されまいと必死にしがみつくあなた。

 

「手を離したらとんでもない所に流されるんじゃないか…」

 

「死んでしまうんじゃないか…」

 

そう怖れてしがみついているのかもしれませんが、僕から見ると、

 

 

 

「流されちゃえばいいじゃん」

 

です。笑

 

 

 

 

いつでも、どこにいても、何をしているときも、『神』はあなたと共にいます。

いついかなる時も『神』の中にあなたがいて、あなたの中に『神』がいるのです。

 

しかし、『神』はどこか遠い場所にいるに違いない、そういう信念の夢を今のあなたは見ているのです。

 

何か得体の知れない大きなものに流されてしまうような気がして怖いと感じる時はこんなふうにイメージしてみてください。

 

 

 

自分を押し流そうとする川の水が全部『神そのもの』だとイメージするのです。

 

このまま流されてしまったらどうなるかわからない、けれどあえてしがみついてる手をパッと離してみる。

 

自分を押し流す『神という水』に流されるままにしてみる。

 

 

 

「抵抗するのも疲れたよ。ええーい、もういいや!!」

 

 

半ばやけくそでパッと『神』に全身を委ねるのです。

 

 

『神』に向かってこう依頼してください。

 

 

『私はあなたにどこに流されようとかまいません。

その代わり、必ず私を幸せにしてください』

 

 

 

流されるままにしても、拍子抜けするくらい怖いことは起きません。

 

身を委ねれば委ねるほど、不思議と川の流れは穏やかになっていきます。

 

 

 

手を離すということは、

 

「どこに流れ着くの?」

 

「どうしたら幸せになれるの?」

 

と『神』に質問するのをやめることを意味します。

 

 

『神』にお願いして、手を離してワーッと流されていく。

気づくとあなたは幸せにたどり着きます。

 

 

 

大丈夫。

 

 

焦らないで行きましょう。