【参考書は教科書ではありません】
テキストやワークを自分一人で理解しようと思っても難しい。
だから参考書となるものが必要になったりする。
数ある解説、数ある参考書があります。
その中で自分が一番しっくりくるものを選ぶ。
時期が変われば違う参考書に興味が湧くかもしれない。
それはそれで構わない。
教科書だけでは理解できないから参考書を読むわけですが、そこから参考書がメインになってしまう人がいます。
以前、僕のサイトに批判的な学習者(先に書いた方)から、
「こういう表現はおかしい」
「こういう説明は誤解を与える」
「こういう表現はワプニックはしない」
などと事細かく指摘されたことがありました。
なるほどと思える指摘もあったのですが、「???」な指摘が多数ありました。
なぜかというと、その間違いと言われた部分は、もともと『テキスト』や『ワークブック』、『教師のマニュアル』に書かれているものだったからです。
多少言葉の表現を変えているところもありますが、熱心な学習者なら同じことの解説だと気がつくはずです。
その人は、いかに自分が長くコースを学んできたか、いかにワプニックを尊敬して愛しているか、いかに僕よりもコースを深く理解しているかを伝えてきました。
それなのにどうしてこういう基本的なズレができてしまうのか、その理由を僕なりに考えてみました。
おそらくその人はテキストやワークブック中心の学習ではなく、参考書中心の学習(ワプニックの解説など)を続けてきたのだと思います。
3部作は当然完読しているはずです。
しかし、その後の学習はワプニックの解説を読むことが大半で、テキストやワークブックを読み返す機会はほとんど無くなったのではないかと思うのです。
だから僕に間違いと指摘したコースの原文は、
かつて読んだけれど忘れたか、
あるいは最初に読み飛ばしてしまったか、
あるいは読んだものの理解できぬまま放置したかのいずれかではないでしょうか。
誤解されると困るのですが、コースの内容を完璧に理解しようとするために無理に復読する必要はありません。
本文を完璧に暗記する必要もありません。
3部作を完読した後は、読み返したくなったらまた読めばいい。
気になる箇所があったとき再読すればいい。
基本はそれでいいと思います。
しかし、コースは様々に言葉の表現を変えながら同じ内容を繰り返し語っています。
これは自我の抵抗を巧みに和らげながら、少しずつ少しずつ学習者の意識下に真理を染み込ませるためだと僕は解釈しています。
同じ意味のシンプルな教義を、説明のニュアンスを変えながら繰り返し繰り返し語りかける。そうすることで少しずつ理解を促しているのだと思います。
大事なことは、真理は言葉で伝えられていても言葉そのものではないってことです。
神は言葉を創造してはいません。
コースは言葉にならないものを言葉に置き換えているのです。
真理=言葉ではありません。
言葉の中に真理があるというより、
言葉を踏石にして、言葉の向こう側にある真理を感じとるための学習なのです。
そうすれば、コースの内容について様々な説明に出会う時、
それぞれ違った言葉で表現されていても、
違う翻訳者のバージョン、もしくは英語の原文を目にしたとしても、
書き手がコースの本質を誤って解釈して執筆していないかぎりは、それがどういうバージョンであっても、
「これは表現が違えど同じことを説明しているな」と学習者は気づけるはずです。
ワプニック自身はコースの全容を完璧に理解していた最高の教師と呼ばれており、僕もそう思います。
しかし、生前の彼がテキストを含む3部作に記述された全てを余すところなく解説していたかといえばそうではないでしょう。
(コースの根幹、本質的なことについてはほとんど全て解説してくれていると思います)
そうなるとテキストやワークを一通り終えた後でワプニックの解説を読むことを学習のメインにしている場合、ワプニックが解説している箇所についてはいいとして、ワプニックが解説していない箇所については、いつまでも理解が進まない(テキストに書かれていることすら忘れている)おそれがあります。
それは言葉を追いかけることが学習の本質だと誤解してしまった場合にそうなるということです。
(ここでいう言葉を追いかけるとは、言葉を言葉のまま理解することが学習なんだと思い込むことです)
優れた教師の解説を知ることは大きな助けになります。
しかし、わからないからすぐに誰かの解説に依存するのではなく、
テキストやワークの文言を自分なりに「こんな意味かな?それともこういう意味だろうか……」と何度も反芻する日々(モヤモヤする時間)が大切だと僕は考えています。
そのモヤモヤする日々は長く続くかもしれませんが、
やがて実生活の経験を通して、「あぁ、そうか!あれはこういう意味だったのか」と腑に落ちる瞬間がやって来るのです。
その瞬間が来るまでに数ヶ月かかるかもしれませんし、半年、一年、あるいは十年かかるかもしれません。
しかし、コースの教えは自分の人生経験を通して、実践を繰り返すなかで、初めて理解されるように構築されているのです。
だからコースは学校で教えることが不向きな『自学自習のコース』と言われているのでしょう。
優れた教師は優れた補助教材になります。
しかし、コースの内容を考えだしたのはその教師たちではありません。
あくまで学習のメインにすべきものは教科書のほうです。
参考書を読み尽くして、肝心の教科書の内容を忘れてしまっては本末転倒ですよね。
大切なのは、
その中の教えを継続して実践していく強固な意志、
自分自身や兄弟を責めることのない楽観的な態度、
赦しをサポートして導いてくれる聖霊への信頼です。
コースの学習で焦りは禁物です。
私たち学習者を焦らせるのはいつも自我です。
ゆっくりゆっくり無理なく自分のペースで、自分なりのカリキュラムで進んだらいいのです。