奇跡のコースは宗教ではありません①


 

 

 

このページは『奇跡のコース(奇跡講座)』の学習者の方に向けて書かせていただいています。

 

それ以外の方がお読みになると(?)かもしれません。

 

 

 

【コースと宗教の違い】

 

 

コースの基本は『自分の見方を変えること』

 

宗教やスピリチュアリズムでも自分の見方を変える必要性を教えることもありますが、

 

その教えの多くは、この世界でどのように振る舞い、どのようにして人と関わり、この世界でどのように行動し、この世界をどう変えていけばよいのかというお話が基本ではないでしょうか。

 

 

つまり、

 

《実践とは=具体的、物理的行動》

 

《進歩とは=理解度、物理的行動の変化》

 

のようなものでしょうか。

 

 

 

宗教やスピリチュアリズムでは他人に奉仕することの大切さを説いています。

 

他人に優しくすること、物理的に手助けすること、そういうことの積み重ねが進歩の基準たったりします。

 

あるいは、物質世界への執着をどれくらい手放すことができるかといったことを基準にしていることもあるでしょう。

 

 

 

コースには基本的に行動規範はありません。

 

自分がどう行動すべきか、

 

他人をどう行動させるか、というお話は出てきません。

 

 

 

コースにも兄弟(同じ神の子)に奉仕すること、兄弟を愛することの大切さは書かれてはいますが、

 

コースの場合、行動、態度をどう変えるかが目的でなく、

 

自分がゆるしを与え続けることで自分の心に変化を起こすことが主目的であり(奇跡を起こすこと)、

 

自分の心に変化を起こした結果、兄弟に対しての思い、兄弟に対しての態度、時として自分に見えるものも付随して変化するということだと思います。

 

 

 

心は肉体の中にあるのではありません。

 

肉体の中で生きていて、肉体の外で起きる出来事や、肉体の外に存在する人たちを見つめている……

 

そういった分離を誤って信じている自我の視点で私たちは生きています。

 

しかし外で起きているように見える出来事も、外に存在しているように見える他人も、全部自分の心の中で見ている夢ですよね。

 

神という存在以外のこの宇宙のすべては自分の心の一部がつくり出した夢なのだから、

夢そのものを変えるのもまた自分の心ですね。

 

ひたすら自分の心の中を見つめ、必要に応じ自分の心を変えていく。

 

自我として判断せず、聖霊に判断を委ねる。

 

絶え間なく自分の心の中を見つめ、自分の心の中を変えていく。

 

その過程で自分の物理的な行動が変わっていったりすることがあるわけですが、

 

常に最初に変わっていく必要があるのは心のほうであり、まず最初に行動ありきではないというスタンスです。

 

 

 

 

言葉や態度はごまかすことができます。

 

ゆるしていないものを「ゆるせた」と言うことができます。

 

理解できていないのを「理解している」と言うこともできます。

 

愛していないものを「愛している」と言うこともできます。

 

本当は怒りでいっぱいなのに満面の笑みを浮かべることもできます。

 

 

 

わかりやすく例えるなら、

 

言葉が心を変えるのではなく、

 

心が変われば、口から出てくる言葉も自然と変わるのです。

 

 

私たちは行動を変えることで心を変えられる気がしていますが、

 

心を変えることで初めて行動も変わってくるのです。

 

 

 

 

極端な言い方をすれば、

 

『顔は笑っていても、心の中では怒ったり泣いたりすること』がコースの目的じゃなく、

 

『たとえ顔は無表情であっても、心の中はいつも朗らかでいられること』かもしれません。

 

 

 

外は吹雪でも、お家の中はいつも安全、いつも暖かな温もりで満たされている……単純な比喩ですがコースの目指すところはそんなところでしょうか。

 

 

学校のように、みんなが一斉に同じ科目を同じ順番で学ぶことはできません。

 

各々に独自のレッスン、独自の順番のカリキュラムが存在します。

 

テキストやワークは最初のページから順々に読み進めていくわけですが、

 

概念、理論を各自のペースで学んだら、あとは実践を通して理解していくよう意図されています。

 

 

 

学校のように試験をすれば学習度が分かるというわけではありません。

 

どれだけテキストを暗記しているかは重要ではありません。

 

どれだけ自分の人生で実践できているかが基本ですので、誰が上級の学習者で誰が下級者か、そんなことを他の学習者が判断することなんてできないでしょう。

 

 

それを判断するのは、自分が上級者であると自負している人だけかもしれません。

 

 

常に自分で自分の心の中を見つめる。

 

自分の心の中を聖霊と共に見つめる。

 

自分に見えるものを自我の視点で見ることをやめ、聖霊の視点で見つめ直す。

 

 

心の中は他者にはわかりません。

 

その人の心の中で何が起きているか、

 

その人の心の中で何が変わって、何が変わっていないのか、

 

他の人がおいそれと判断することはできません。

 

 

 

 

だから『奇跡のコース』は『自学自習のコース』といわれているわけですね。

 

自学自習が基本ですから、学習者は宗教の布教活動みたいなことをする必要はありません。

 

自分から興味を持った人がいたなら必要に応じてアドバイスしたらいいと思いますが、

 

頼まれてもいないのに他者の生き方や考え方を変えてやろうと意気込むのは自我(エゴ)そのものです。

 

 

 

学習者の間に序列もないし、資格を要するわけではありません。

 

 

学習期間が長かろうが短かろうが、

 

《学習期間の長さ=進歩 》ではありません。

 

 

 

もちろん実践するのは大変な苦労が伴いますから長い時間はかかります。

 

しかし、長い=進歩 とも違います。

 

 

 

ワークを何年やっていようが、

 

何回テキストを読んでいようが、

 

内容を丸暗記していようが、

 

自分で実践できていないものについての理解は滞ったままになります。

 

 

 

コースは常に自らの人生のさまざまな局面で実践していくことにより一つずつ理解できるようイエスによって意図されているからです。

 

 

僕自身の経験がそうです。

 

コースを読んだ際に理解できたつもりでいたたった一行の言葉。

 

それが、何年も経った後、ある日、ある経験の中で、

「あっ、あれは本当はこういう意味だったのか」と気づいたりします。

 

 

読んだときは確かに理解できたつもりでいたのです。

 

でも経験を通してみると、実は全く理解してなかったと気づくことが多々あります。

 

 

たった一行を理解するのに何年かかってんだって感じです。笑

 

その連続です。気が遠くなります。

 

 

残念ながら、読んだだけで、聞いただけで、「わかった」なんてことにはならないのです。

 

 

 

それはたとえワプニックの解説でも同じです。

 

やはり最終的に自分の実生活を通じて実感できないうちは理屈だけの理解に留まっているのです。

 

そこで自分でも良かれと思ってよくやらかすのですが、理解したつもりでいたことが実はほとんど理解してなかったと気づいた時に抱いてしまう罪悪感です。

 

 

良かれと思って一人反省会を始めてしまうわけですが、それもまた自我の策略ですね。

 

 

理解してなかったことは恥ずべきことだと感じさせるのは自我の常套手段です。

 

 

だから僕はこんなふうに思うことにしています。

 

霊的知識の理解とは『新しく発見した風景である』と。

 

 

 

よく知っているつもりの道を歩いていたら、道端で新しい何かを発見した。

 

よく知っている道でいつもと違う角を曲がってみたら見たことのない風景が広がっていた。

 

そんな経験は誰しもあるかと思います。

 

 

 

そんなとき、その知らなかったことに対して罪悪感を抱くでしょうか。

 

知らなかった風景を目にして、

 

もしその風景が素晴らしいものだったならば素直に感動する、

 

基本それだけではないでしょうか。

 

 

 

知らなかった風景を発見して、その場で反省会を開くでしょうか。

 

その風景を知らなかった自分を恥じたりするでしょうか。

 

霊的知識は身につけるものではなく、

 

知っていたものを少しずつ思い出していくことです。

 

 

 

忘れていたもの、見えないと思っていたものが自分の間口(意識)を広げでいくことでだんだんと見えるようになっていくことです。

 

 

知っていたというのは、この肉体レベルの話ではありません。マインドレベルの話です。

 

一つずつ気づくたび、今の自分はコースの百分の一も理解していないような感覚になります。

 

 

それに対して罪悪感ではなく、

 

「まだ見ぬ素晴らしい風景に出会えた」

 

「これからも知らない感動がいくつも残っているんだ」

 

と自らに言い聞かせることで僕は自分を慰め鼓舞しております。笑

 

 

 

 

 

 

【特別な学習者はいません】

 

 

コースを新しい聖書のように考えてしまう人がいます。

 

FACIM(ファシム)を宗教組織のような、カトリックのバチカンや、仏教の総本山のように捉えて、

 

コースの最高の教師、ケネス・ワプニックを絶対的教祖のように思ってしまう学習者がいます。

 

そういう人がワプニックと違った視点で説明した解説に出会うと、それが間違いであるかのように感じてしまいます。

 

世界にはそういう学習者が少なくなく、ワプニック以外の解説に対して排他的、批判的になる人たちもいます。

 

 

 

僕もサイトを始めて、そういう学習者から批判を受けました。

 

「ワプニックと図の書き方が違う」

 

「ワプニックは最高の教師。だからあなたはワプニックの解説に従うべき」

 

あげくに「私はワプニックから直接教わった。だから私の方が正しい」

 

そう言われたのですが、個人的にはそれが何なのかなって思っています。

 

 

ワプニックはすでにこの世に居ません。

 

彼から直に教わらないと学習が進まないのであれば、これからコースを学ぼうとする学習者はどうしたら良いのでしょう。

 

 

コースは徒弟制度が存在するのでしょうか。

 

学習者の中で上級とか下級とか一体誰が判別するのでしょうか。

 

ワプニックが直接教えた学習者たちは特別に選ばれた人たちでしょうか。

 

コースの真摯な学習者であれば、誰でも必要なお金を払って教わることができたのではないでしょうか。

 

 

 

ワプニックと直に交流できた人たちは幸運な人です。

しかし、だからその人たちが特別な存在というわけではないでしょう。

 

 

ワプニックはコースを100%理解している素晴らしい教師です。

 

しかし、その彼から直に学べば、それだけでコースを100%理解できるわけではないはずです。

 

 

 

 

僕はごくたまにこんな人に出会います。

 

コースを一度も読んだことがなく、コースの存在すら知らないのにコースで教えていることをちゃんと実践している人がいます。

 

コースはもちろん、

 

スピリチュアルって言葉にも興味がないと言っている人だったりします。笑

 

 

 

 

もちろんその人は完璧ではありません。

 

しかし、学習者としては先を歩いています。

 

 

そういう人は前世などで多くを学び、その学んだことを数多くの転生の中で根気強く実践し続けた人です。

(当人は前世のことなんか考えもしないでしょうが……)

 

 

いくつもの生で、多くのことをゆるして、多くの兄弟にゆるしを与え続けた結果、今ここで生きているのでしょう。

 

 

 

今生での僕にはコースは必要でした。

 

今ここの人生にとってコースと出会う必要がありました。

 

一日も早くこの世界から卒業したいと願い続けた結果、「じゃあ、こんな方法があるよ」と導かれたのです。

 

でも必要としない人がいるのも事実です。

 

人それぞれ何を選ぶか選ばないかは自由です。

 

遅かれ早かれすべての兄弟はコースではないにしても、

 

いつかは本質的にはコースと同じことを学んで、同じところへ帰ります。

 

 

 

それは現世かもしれないし、来世、再来世かもしれません。

 

それは既成事実として揺らぐことはありません。

 

未来と過去は同じ場所にあるのですから。

 

この宇宙の始まりと終焉は同じところにあるのですから。

 

要するに今コースを学習していることは何も特別じゃないってことを言いたいのです。(僕も特別のように感じていた時期があります)

 

 

 

学ぶ方法や学ぶ時期が違っていても、究極的には皆同じことを学ぶのですね。

 

ワプニックはコースの最高の教師です。

 

でも唯一無二な存在かといえば違うでしょう。

 

 

 

彼以外にもコースの智識を実践して自我を卒業できた人は何人もいるはずです。

 

敬愛することと盲目的に崇拝することは違うでしょう。

 

 

誰かの教えを敬愛することは、その人と違う教え方を排除することではないと思います。

 

他者の間違い探しにエネルギーを注ぐことで学習者は進歩できるでしょうか。

 

 

 

ワプニックのコースについての解釈は全て正しい。

 

けれど、その解釈をどんな言葉や方法で説明するかについては彼のパーソナリティが色濃く反映されていると思っています。

 

 

彼が生まれた時代、彼が育った国、彼が慣れ親しんだ言語、彼が影響を受けた文化、彼の場合はそこに心理学者としての知識や経験がパーソナリティにプラスされています。

 

 

よって、コースについて彼と同じ解釈をしたとしても、

 

彼とまったく同一の表現で説明するとは限らないはずです。

 

 

 

 

学習者それぞれに物理世界での固有のパーソナリティがあります。

 

それが各々のフィルターとなって、言葉やその他の表現に違いが生まれます。

 

 

育った時代、民族性、言語、文化や職業といったバックボーンが違っていれば、

 

同じ真理を違う方法で説明する人が出てくることは自然なことではないでしょうか。

 

 

 

 

僕も日本で出版されているワプニックの著作本についてはほとんど読んでいます。

 

JACIMのサイトも利用させていただいています。

 

大変尊敬しています。

 

時々、キリストに祈るように語りかけたり質問したりすることがありますが、

ワプニックに対しても同様に祈りの中で呼びかけたり質問したりすることがあります。

 

 

 

感謝しかありません。

 

ワプニックは素晴らしい教師です。

 

でも彼はコースから学び、コースを見事に実践してみせた人ですが、コースそのものは彼が生み出したものではないはずです。

 

コースを出版すること、コースを広く知らしめるために尽力してくれた人ですが、コースの内容は彼が考えたわけではありません。

 

 

 

僕はある時、マインドでワプニックにこう語りかけたことがあります。

 

 

「あなたはコースを完全に理解した。あなたは素晴らしい」

 

 

すると間髪入れずに彼から返事が返ってきました。

 

 

『素晴らしいのはイエスです。私ではありません』

 

 

それでも僕はこう返しました。

 

 

「イエスは素晴らしい。でもあなたも同様に素晴らしい」

 

 

そう伝えた次の瞬間、ウワーっと強い波動を感じました。

 

 

 

あえて表現するなら強力な愛のエネルギーです。

 

そのエネルギーがワーっと自分の中に入ってきて(外から来るというのは幻想なのですが)感謝の気持ちでいっぱいになり涙が溢れてきました。

 

 

 

 

こんなふうに彼はすべての学習者を平等に愛し、見守ってくれているわけです。

 

しかし、僕はワプニック以外のマスターと呼ばれる人の視点も取り入れますし、影響を受けてきました。

 

 

 

彼とは違った僕自身がしっくり合う方法を使って説明を試みたりします。

 

もちろんその際はコースの本質から外れないように気をつけています。

 

僕は未だ完璧にコースを理解しているわけではありません。

 

だから僕が説明できることは僕自身の理解できた範囲内です。

 

よって注意はしているものの完璧に書くことは不可能です。

 

 

 

 

当然、コースの教師と名乗れる立場にはありません。

 

 

しかし、完璧に理解してから何かを発信しようと思ったら、おそらく一生無理なのも事実です。

 

 

これは当然のことですが、テキストやワークの内容を勝手に削除したり書き加えてはいけませんね。

 

これは著作権の問題というより、

コースの完成度は極めて高いので、改めて誰かが修正する余地は残っていないと思うのです。

 

 

 

真理は不変です。

 

 

そして不変であるがゆえに普遍的です。

 

 

最初からそこに在り、

 

どこにも行かず、

 

何にも変わらず、

 

静かに確実にそこに横たわり、


力強い光を放ち続けているものです。

 

 

 

 

そして、コースは体系的に理解を深めていけるよう構成されていますから部分的に切り取るように読むこともできません。

 

 

しかし、一度完読した後ならどこから読んでもかまいません。

 

コースの内容そのものを変える自由は学習者にはありませんが、

 

コースの内容をどんな方法を用いて理解してゆくかは個々に委ねられています。