『奇跡のコース』でイエスにくり返し言われるのは、“学ぶために教える”ってことです。
最初は意味がわかりませんでしが、
自分の体験を通して「こういうことかな」と少しだけ理解できるようになってきました。
“学ぶために教える”とは比喩ですね。
イエスは、『自分が学んだことを人に教えることで自分の信念を強化する』と伝えています。
それを僕なりの言葉で説明するとこうなります。
生徒は、その時々で今の自分に必要な何かを教わるための教師を無意識に引き寄せます。
その反対に、教師は自分が学んできたことの信念を強化してくれる生徒を無意識に引き寄せます。
この場合の教師とは、そういう職業であるかどうかは関係ありません。
教師と生徒は家族関係かもしれないし、友人関係や職場の同僚かもしれません。
人それぞれ固有の波動を持っています。
自分が何を信じているのか、その時々の自分の信念が自分の波動を決めています。
教師が出会う生徒は、常に【自分と同じ波動の生徒】です。
ここでいう“教える”とは言葉に限りません。便宜上、言葉を使っても言葉自体は重要ではありません。
スピリチュアルな知識を学んでも、大抵は頭でわかったつもりでいるだけで、自分の経験を通さないと本当に自分の血肉にはなりません。
自分で実践しなくては身につきません。
【学んだ】=【実践できた】です。
相手に“何かを教える”ということは、
教える側が『本当に自分が信じていることは何なのか?』ってことを問われます。
自分が本当は信じていないことを教えても、本当に相手のマインドを変える影響力はありません。
自分がまだ信じられていないことを相手に教えても、相手は(生徒は)それを信じることはできません。
相手のマインドの深いところには届かないし、逆に相手の意識を混乱させるだけになってしまいます。
生徒は言葉を聞くことはありますが、本当は教師の波動を感じています。
【教師の波動】=【教師の信念】です。
だから教師は、その時々で自分の前に現れる生徒を見ることで、
『自分自身がが何をどれだけ信じているか』を理解することになるのです。
生徒の信念が強くなるごとに、教師の信念も強くなるってことです。
人と人のあらゆる出会いは、その時々に自分が見るべきものを相手が見せてくれます。
その時々の自分にとって最適なレッスン、最適な教材として相手を引き寄せるのです。
だから、生徒が最適な教材として教師となる誰かを引き寄せるように、
教師もまた自分の学びを促進させるための最適な生徒を引き寄せるわけですね。
僕はこのサイトや、カウンセリングを通して、何かを教えるような役割をしていますが“教師”とはいえません。
教師ではなく、永遠に生徒のまんまです。
正確にいえばこの世界に永遠なんてないのですが、この夢の世界にいる限り、これからもずっと“生徒”のつもりです。
教師とはいえないから、このサイトは“教室”とは言わずに“保健室”ってことにしているのです。
「教師ではない」というのは謙遜ではなく事実なのです。
僕は自分が学んできたことしか教えられません。
そして、それはいつかすべての人が遅かれ早かれ同じことを学ぶことになるものです。
僕が先に学んでいるものがあるでしょう。
でも、あなたが先に学んでいるものもあるでしょう。
たとえるなら、学校で苦手な科目があったら、その科目が得意な同級生に教わったりしますね。
その逆に、自分の得意な科目を誰かに教えたりしますよね。
この場合、どちらが教師かといったらどちらも教師ではありませんよね。
どちらも同じ教室で学ぶ生徒にすぎませんよね。
スピリチュアルな学びも同様です。
その時々で、教える側と教わる側の役割を変えながら、お互いに成長を続けていくのです。
クライアントさんに何かを相談され、僕が一方的に何かを教えるってことはありません。
その都度、僕もクライアントさんから何かを教わっています。
「今回、あなたにこんなことを教わりました」と、いちいち相手に言いませんが、必ず何かしらを教わっているのです。
偶然なんて一つも存在しないのです。
常にお互いが必要なことを学ぶタイミングで出会っているのです。
だから、僕とあなたは同級生のようなものなのです。
以前、『一緒に祈ります』という企画をやらせてもらっていましたが、
あれも結局はクライアントさんのためにやっているようで自分のためにやっていたのです。
『祈り』を行った後日、クライアントさんから「涙が出ました」とメールを頂くことがありますが、
実は僕も同時に涙が出ていたことが多いのです。
マインドの中の何かしらの部分で癒しを必要とする人が来た場合、
僕自身の中にも癒しを必要とするところが同様にあるってことなのです。
それは、その人に出会うまでは自分でも気づけないのです。
だから無意識に引き寄せあうのです。
癒しはどちらか一方的に起きるものではなく、
癒そうとする側、癒されようとする側の両方に起きるもので、
その関係性は常に“対等”ってわけです。
だから、これは『奇跡のコース』でイエスが言っていることですが、
教師もしくはヒーラー自身の中ですでに癒されている部分については、それを癒すような依頼者は来ないってことになるのです。
わかりにくいですが、
もしも、あるヒーラーに、あるいはカウンセラーに、くり返し同じ癒しを必要とする人が現れるなら、
そのヒーラーは自分自身の癒しに失敗していることになるわけです。
クライアントさんが自分という存在の外側にいて、
自分が何かを一方的に与えるのだと(たとえばエネルギーのようなものを)思い込んでいると、
癒しは不完全に終わるのです。
“癒す”とは相手を“ゆるす”ってことです。
クライアントさんの悩みは、クライアントさんにとって【まだゆるせないこと】です。
その同じ悩みをもつ複数のクライアントが、あるカウンセラーのもとにくり返し現れるとしたら、
そのカウンセラーは【自分自身が未だそれをゆるしていない】のです。
カウンセラー自身が見る必要があるものをクライアントさんが持ってくるのです。
カウンセラー自身がそれをゆるせていないから、レッスンとして同じ悩みを持つ人がやってくるのです。
カウンセラーは常にクライアントさんと一緒に“ゆるし”を行わなければならないのです。
たとえば、あるカウンセラーのもとに、夫の暴力に悩む女性たちがくり返しやってくるとしたなら、
そのカウンセラーは、【暴力をふるう夫】をゆるしたことがないってことになります。
暴力の物理的な面だけを見て、
暴力をふるう夫をただの加害者、暴力をふるわれる相談者をただの被害者としか見ないまま解決法を探ろうとすると失敗するのです。
この場合、相談者は暴力をふるう夫をゆるさなくてはいけません。
この場合の“ゆるす”とは暴力をそのままにしておくってことではありません。
我慢して今までと同じように生活を共にしましょうってことではありません。
暴力は物理的にやめさせなくてはいけません。
物理的に暴力から離れなくてはいけません。
でも、マインドの中では『相手をゆるす』ってことです。
ゆるすためには、なぜそれが起きているのかを見なくてはいけません。
自分が見ているものは、自分のマインドでつくりだした夢です。
よって、まずは自分がなぜそのような夢をつくりだしたのか、
マインドの何を変えれば夢の内容は変わるのか、
その夢の中で、夫は相談者にとってどんな役割を担っているのか、
そういうところまで突っ込んでいかなくてはならないのです。
カウンセラーが潜在意識で、相談者と同じように暴力をふるう夫を憎んだり軽蔑したりしている。。。
カウンセラーが相談者と一緒になって起きていることを現実と信じてしまっている。。。
つまり、相談者は夫をゆるせないと思っているけれど、
同時にカウンセラーもその夫をゆるせないと思ってしまっているわけです。
これは、カウンセラーが嫌悪感を口に出したり、態度に出しているかの問題ではありません。
カウンセラーのマインドの深いところにあるのかないのかの問題です。
これは理解しにくいし、誰かに説明するのはさらに難しいので、このことは僕もくり返しイエスに質問しました。
しかし、何度尋ねても、返ってくる答えがぶれることはありませんでした。
その後、イエスの言葉を実証するように、
僕のクライアントさんの中で、その人のマインドに変化を起こせた場合(つまりクライアントさんに癒しが起きた場合)、
それ以降、同様の悩みを相談するクライアントさんは全くいなくなるのです。
これは、カウンセラーである僕自身の中にも癒しが起きたということです。
つまり、クライアントさんが相手もしくはその出来事を“ゆるせた”とき、
同時に僕も同じものを“ゆるすことができた”ってことなのです。
そんなとき、「イエスが言っていることは本当だった」と実感できます。
同時に、「やっぱり自分が見ている世界は自分がつくりだした夢なんだ……」と信じられるのです。
癒しも、学びも(どちらもイコールですが)、自分一人では不可能ってことです。
常に誰かと共に行わないと(自分を映す鏡がないと)完結しないのです。
相手と自分は常に一体。
相手を癒す必要があるのなら、同じように自分も癒す必要がある。
教師にとって生徒は鏡のような存在として現れるのです。
すべては最初から一つです。
宇宙のすべては、最初からたった一つのマインドが見ている夢です。
私たちは、すべてを一つにするために成長をするのではなく、
すべてが一つであることを思い出すために成長を続けるのです。
さまざまなことをゆるし続けながら『本当の自分』を取り戻してゆくのです。
学びは長いです。
でもいつかは終わります。
いつかは終わって『本当の自分』に戻ります。
そして私たちを創造した『神』のもとに帰ります。
それまでお互いにがんばりましょう(笑)