コースを学んで起きた現象


 

 

 

《奇跡のコース》を「テキスト」、「ワークブック」、「教師のためのマニュアル」と一通り学んでみました。

 

学んだと過去形で言っていますが、今もテキストを読んだり、自分なりに解釈したノートを読んで復習を続ける毎日です。

 

 

ここがこれまで読んできたスピリチュアル本と違う点です。

 

結局、一回読んで済むものじゃなく、学習し、実践し、また「テキスト」「ワークブック」に戻って、この繰り返しを一生かかって続けないと全容は理解できないのです。

(べつに繰り返し読まなくてはいけない決まりがあるわけではありません)

 

でもよく考えたら、同じようにお坊さんは経典を、神父さんは聖書を繰り返し学び続けるわけですから、コースの学習者だけが特別なことをしているわけではないんですよね。

 

 

僕がコースを学び始めたきっかけはすでに書いた通り、

 

「もう二度と生まれ変わらなくて済むようにしてください」

 

と『神』に懇願したことが始まりでした。

その後、このコースに出会った、つまりコースに導かれたわけです。

 

他のスピリチュアル本とコースの教えは重複している点もありますが、基本的な教えはまったく正反対だったりします。

 

だから最初は読み始めると抵抗を感じます。

 

これまで信じてきたことを容赦なく否定されるので、自分の中の自我(エゴ、フィジカルマインド・自意識)が激しく拒絶反応を示すわけです。

 

 

 

他のスピリチュアル本は基本的に、

 

「この宇宙は『神』によって創造された」と語ります。

 

 

コースは、「『神』はこの宇宙を創っていない」と語ります。

 

 

 

 

他のスピリチュアル本は、「この宇宙は永遠に続く。永遠に拡大し続ける」という考えを基本に据えています。

 

 

コースは、「この宇宙はいずれ終焉を迎える。すでに宇宙が終わっている未来はある。けれどそれはすべての『神の子』にとって至上の喜びである」という概念を礎石にして、そこから一歩もブレることはありません。

 

 

 

僕はいきなりコースを読み始めたわけではなく、コースの関連本を何冊か読んでコースの概要を知ったあとで、ようやく「テキスト」の学習を始めました。

 

それは、コースの学びを短縮するには(理解しやすくするには)、僕にとっては最適の順番だったと思います。

 

 

関連本を読み始めて間もなく、いろいろな現象が起こりました。

ある夜、寝室で関連本を読んでからリビングへ行くと天井がグニャーっと歪んだのです。

 

べつに変なクスリはやってません。笑

 

それは自分にとって新しい領域に足を踏み入れた「ささやかな象徴」でした。

 

【今ここ】で自分が見ているものは全部幻想だってことを、ゆっくりと自分の中に受け入れてゆく最初の一歩でした。

 

自分のマインドがこれから変わろうとしている前兆なんだと理解したのです。

 

 

 

他の現象としてあったことは、頻繁に光を見るようになりました。

 

屋外ではほとんど見ないですが、部屋の中にいると視界の隅で光の点滅を見ることが多くなりました。

 

これは「テキスト」にも説明があるのですが、学習者が“光“に目覚め始めると起こる現象です。

 

以前、矢追純一さんの本に、「視界の中心視野は顕在意識とつながっていて、周辺視野は潜在意識とつながっているらしい」というようなことが書かれていたことを思い出しました。

 

他の人はどうなのか知りませんが、僕の場合は、確かにいろんな非物質的なものを見る時はいつも視界の中心ではなく、中心からズレている辺りで見えることが多いのです。

 

これは個人差があることなので、「私は中心視野で見えてますよ」って人もいるでしょう。

 

 

そしてテキストを読み始めた最初の夜、自分の全身からブワーっとオーラが出るのが見えました。

 

それまで僕の場合、オーラは手の先からぼんやりと光が出ている程度に見えるくらいだったのですが、

この日は初めて温泉の湯気みたいなものがブワーっと全身から出始めて、「なんだか怖い」と思ったら次の日から見えなくなりました。笑

 

 

オーラを見る人というのは段階がありまして、

白い光を見るのが第一段階、色付きで見えるのが第二段階、肉体のオーラやエーテル体、アストラル体などのさまざまなオーラを同時に見えるのが第三段階といえるかもしれません。

 

ただこれからコースを学ぼうとする人に誤解してほしくないのは、そういう特異現象を体験するためにコースは在るのではないということです。

 

くれぐれも曲解しないでいただきたいと思います。

 

 

 

コースはあくまで、創造主への潜在的な恐れを除去し、創造主の元へと帰還することを最終目標としています。

 

コースは、私たち『神の子』が見るもの聞くものすべてをゆるすことで(見過ごせるようになることで)『本当の自分』を思いだすためのプログラムです。

 

これはコースの中でも言及されていますが、いわゆる霊感が強まるかどうかは、学びを進めていくなかでそうなるかもしれないし、ならないかもしれません。

 

しかし、そういう能力のある無しは必ずしも霊的進歩と一致するものではないってことを改めて強調しておきたいと思います。

 

つまりは、生涯、非物質的な現象を見ることがない人でも、学びを進めて成長し、『本当の自分』を思い出す人はいるということです。

 

 

 

【スピリチュアルな学び=非物質的現象を見たり起こしたりすることが目的】

 

ではないってことですね。

 

 

 

僕の場合、テキストを繰り返し読んだ後、ワークブックを1年半くらいかかって終了しました。

 

完読してホッとしましたが、その後の「教師のためのマニュアル」を読むと、まだまだ自分で理解し切れていないものを多々発見し、気が遠くなりました(泣)。

 

 

 

 

まぁ、一生かかるんでしょうね、きっと。

 

そんな僕を、

 

そして他の学習者たちを、

 

そしてコースに一切触れることのない人たちを、

 

『神』とキリストと聖霊(ハイヤーセルフ)は、

 

どんなことがあっても見捨てることなく暖かく見守って導き続けてくれます。

 

 

 

 

 

ただ最近嬉しかったことがあります。それはこんな出来事でした。

 

 

僕は長いことお年寄りの多い場所へ行くのが苦手でした。

 

もともと十代の頃から人混みが苦手で(最近は平気になりましたが)、若者が多く集まる場所とか、老人が多くいる場所へ行ったりすると激しく疲れて翌日寝込んだりすることもありました。

 

若者といっても幼稚園児みたいな幼い子供だと逆にパワーをもらう気がして元気になったりするのですが、

 

十代とか二十代の集団がいると何とたとえていいのかわかりませんが、

乱れたノイズが飛びかっているように感じて疲れてしまうのでした。

でも最近は大丈夫です。

 

 

 

お年寄りの場合は、たぶん本人はまったく自覚はないと思うのですが、無意識に他人からエネルギーをもらおうとするんですね。

 

それは体が弱って、体が弱ることで気力も弱って、

「自分が外からエネルギーを補充しなくてはならない」という観念があるせいだと思うのですが、そういう人たちの中にいると、その人たちの波動の影響を受けてしまうのです。

 

 

そんなわけで、あらかじめお年寄りが多いとわかっている場所は避けていたのですが、ある博物館へ行ったときこんなことがありました。

 

 

行ったらお年寄りだらけでした。

 

なぜだかお客さんの9割くらいがお年寄りでラッシュアワーみたいになってました。

お年寄りは周囲がよく見えてないので、もうバンバンぶつかってきたりします。笑

 

最初は「あぁ、苦手だな。早く出たいな……」なんて思っていたのですが、

あるお爺さんの顔を、とくにその人の目をぼんやりと見つめていたら、一瞬その人の顔が「少年」に戻ったのです。

 

「あれっ?」と思って、同じように隣のお婆さんを、とくに目だけをじっと見つめているとそのお婆さんが「中学生」くらいの少女に見えたのです。

 

それはほんの一瞬なのですが、こういう現象は今までになかったので面白くなって、展示そっちのけでいろんなお年寄りの顔を見ていました。

 

何人か見ているうちに、

 

「これは聖霊(ハイヤーセルフ)に見せられているんだな」と気づきました。

 

 

 

どういうことかというと、これは当たり前の話ですが、どんな老人にも子供時代はあったわけです。

 

生まれながらに老人だった人はいないわけです。

 

でも、僕自身を含めて、人はみな目の前の「肉体」を重要視します。

 

目の前に見えているものを基準に価値判断しています。

 

目に映るものすべては【幻想】であるにもかかわらず……。

 

 

 

 

私たちの本当の姿は『神』に創られたままの“スピリット”です。

 

一度も老化なんてしない、肉体などただの一度も持ったことのない永遠に生まれたままの自由な存在です。

 

老化して、病気して、不自由になって、そんな肉体は私たち『神の子』が誤ってつくりだしている幻想の産物なのです。

 

 

『奇跡のコース』は、自分がこの世界をみるときの視点を、

エゴ(フィジカルマインド)の視点から聖霊(ハイヤーマインド)の視点へ変えるためのプログラムです。

 

「視点を変える」とは、肉眼でどう見えるか、第三の目でどう見えるかではなく、

 

あくまで肉体で見ているものをマインドの中でどのようにして感じ方を変えるか、

 

どう解釈を変えるかということです。

 

 

時に第三の目で見ているものも付随して変わることもありますが、

 

あくまでも見えているものはそのままで、

 

マインドの感じ方を180度変えることを目標としています。

 

 

 

老人が少年少女に見えたのは、

 

「本当は目の前に“老人”なんて存在しないんだよ」という聖霊のメッセージであり、

 

「新しい視点で見なさい」という聖霊からのプレゼントでした。

 

 

 

同時にこれまで僕が老人たちの波動に影響されやすかったことは、

 

僕が潜在的に抱えてきた“自分が老いることへの怖れ”の象徴だったのだと気づかされたのです。

 

 

もちろん根本にある問題は自分のマインドにある【分離意識】です。

 

 

 

 

他人も、僕自身も、老化を怖れます。

 

僕は僕のマインドの中の怖れているものを、僕自身の目の前に映し出しています。

 

 

私たち『神の子』が、

 

「私たちはいずれ老いて不自由となり死んでゆくのが宿命」という観念をもっているなら、

 

その自分の観念の通りに、自分と他人の肉体をこの世界に投影します。

 

 

 

 

だから、「肉体がこう見えているから、このように解釈しよう」

 

ではなく、

 

マインドの中で自分の信念を変えて、その信念の通りに見ようとすること」

 

が重要なのです。

 

 

 

 

「他人をどんな視点で見ようとするのか」は、

 

イコール「自分のことをどう見るのか」です。

 

 

 

 

僕が他人の肉体を幻想と信じないかぎり、

 

自分自身のことも不自由な肉体なのだと解釈したままです。

 

 

 

こういう現象を通して、また新たに学びができたこともコースを学んでいるおかげです。

 

 

 

 

人の顔は老いるとシワが増え、しみも増え、どうしてもそこに目が奪われ簡単にエゴに騙されてしまいます。

 

最近僕がやっていることは、お年寄りの目だけをじっと見るという方法です。

 

顔中シワだらけでも、目だけはあまり年を取らないですよね。

 

老眼とか緑内障とか関係なく、あくまでも見た目だけの話です。

 

顔全体や体全体も視界に入ってくるのですが、あくまでもその人の両目に意識を集中するのです。

 

すると一瞬その人の子供時代の顔が見えるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の目の前にいるのは、年老いた人ではなく、

 

「自分は年老いた」と信じる本当は一度も老いたことなどないスピリットです。

 

 

ただ、不思議なことに40代や50代くらいの中年の人を見ても子供に見えることはないんですよね。

若者の目を見つめて幼稚園児に見えてくるかといったら何にも見えてこないです。

 

あくまでも老人だけです、僕の場合は……。

 

 

これはどうしてだろうと考えてみました。

 

これはあくまで僕の主観ですが、人って歳を取るほど良くも悪くもいろんなことをあきらめていきますよね。

 

年を重ねて、若いときにこだわり続けた何かを一つまた一つとあきらめてゆく……

 

 

「あきらめる」と書くとなんだかネガティブに聞こえるかもしれませんが、

 

「あきらめる」というのは別の言い方をすると、「それを手放す」ってことです。

 

 

 

執着してきたこと、ずっと手放せなかったものを、一個、また一個と手放してゆく……

 

あきらめることは、「若いときに叶えたかった夢」かもしれません。

 

そして時には「誰かのことをずっとゆるせなかった気持ち」だったりします。

 

 

 

 

「もういい。恨み続けるのは疲れた。もうゆるそう」と手放す。

 

 

 

そうやって心を楽にしていく。

 

 

そうやって自分を軽くしてゆく。

 

 

 

 

個人差はありますが、歳を取るほど性格が明るくなる人は多い気がします。

 

「恥ずかしい」という感覚が薄れ、より開放的になる老人は多いと思うのです。

 

そういう人は、たくさんいろんなことを手放してきたと思うのです。

 

あきらめて、期待するのをやめて、そうやって手放していくうち、だんだん軽くなってきたのではないでしょうか。

 

 

 

たとえば同じ70代くらいのお年寄りでも、僕が見て少年に見える人と、せいぜい40代くらいにしか見えない人に分かれるのは、

 

その人がどれだけこれまでの人生を「ゆるせたのか」というレベルの違いなのかもしれません。

 

どちらのお年寄りも、肉体としての見た目に大した違いはありません。

 

けど、心は違います。

 

いろんなことをゆるせばゆるすほど、その人は軽くなり、『本当の自分』に近づいていきます。

 

 

 

 

『本当の自分』は『神』が創造したときのままの存在です。

 

創造されたままの純粋無垢な存在です。

 

子供に見える老人と、大人にしか見えない老人との差は、

 

今その人がどれだけ『本当の自分』に戻りつつあるか、ということなのかもしれません。 

 

 

 

 

ちなみに僕の両親は今も健在なのですが、自分の親の目をじっと見つめて子供に見えてくるかといえば、

まったく見えてこないです。

 

 

これは相手が身内の場合、主観とか偏見とか過去の記憶とか、いろんなものが邪魔をして客観的な目で見るのを難しくしているのだと思います。 

 

 

これもまた僕自身のレッスンの一つです。 

 

自分の親、自分の家族をスピリットとして、同列の『神の子』として見られずに、

 

「まだ肉体として見ていたい」という僕の信念が残っているのです。

 

 

 

 

本当の僕らは、親でもなく子でもなく、同じ『神の子』です。

 

自分も両親も本当は肉体ではないわけです。

 

でもどこかで親はいつまでも『親という存在』であってほしいという思いを、

僕のマインドが捨てきれないのです。

 

それが僕の視界を曇らせてしまうのです。

 

 

 

「両親は肉体ではない」と信じることは、

 

「僕たちは親子だった」という夢から醒めることにもなるのです。

 

 

 

それが僕の中にある怖れの一つです。 

 

僕は残りの人生で、こういうレッスンを一つずつ片付けていかなければなりません。

 

 

 

僕もあなたと同じです。

 

毎日がレッスンです。365日、レッスンのくり返しです。

 

 

 

僕がレッスンを終えるときは、あなたも一緒です。

 

あなたがレッスンを終えるとき、僕もレッスンを終えるのです。

 

 

 

『神の子』は単独で夢から醒めることはできません。

 

『神の子』は一緒に夢を見始めて、夢から醒めるときもまた一緒なのです。