数回にわたって『いじめ』についてスピリチュアルな視点でお話しします。
いじめの問題は一年中テレビや新聞で報道されています。
自殺者が出るとメディアも騷ぎますが、自殺までいかないようなイジメは報道の何十倍、何百倍もあるのかもしれません。
いじめは子供の世界だけでなく、大人の世界にもあります。
職場、近所付き合い、大人の世界のいじめにもいろいろありますが、本質的には子供の世界と何ら変わりません。
僕は今回、「いじめはけしからん」という話をしたいのではありません。
かといっていじめを奨励したいわけでもありません。
いじめ問題というイメージが、
【一般世間の視点】と【スピリチュアルな視点】とにかなりのギャップがあるからです。
それは、世間が考えるいじめ問題の解決法が、
【いじめた側に罰を与える】
【厳罰をちらつかせて抑制する】
という考え方を基本にしていることにあります。
確かにいじめは止める必要があります。
ただ世の中の圧倒的多数は、いじめられる側ではなく、
いじめる側の人間か、
いじめを知りながら助けなかった人、見てみぬフリをしてきた人間です。
僕自身も含め、誰も他人事ではないと思います。
そのことを責めたいわけではありません。
ただ、解決策は【罰すること】だと信じているかぎり、いじめの問題は絶対になくなることはありません。
これから僕がお話しすることは、
世間の常識とは、ほとんど相容れない非常識なものです。
だから、不愉快に感じる人、反発を感じる人はいると思います。
それは覚悟のうえで書きます。
まずはスピリチュアルな視点で、
いじめがなぜ起きるのか、そのメカニズムを説明し、
それから僕の実体験をふまえて、
どのようにこれを解決したらよいのかをお話ししていきます。
このことは『奇跡のコース』でもくり返し語られることですが、
いじめに限らず、この世界で見られるすべての対立劇は、
私たちのマインドが『神』からの分離を信じてしまったときから始まっています。
この世界は、私たちのマインドが見ている【幻想】であり【夢】です。
この世界は、私たちのマインドが『神』からの分離を信じ、その分離をテーマにつくられた【分離劇】なのです。
「神に捨てられた!」と信じてしまった時のショック。
永遠の幸せ、永遠の愛に包まれていたはずが、
あるとき突然『神』から「捨てられた」「傷つけられた」と誤解した思い。
『神』から離れて、独自に自分の世界をつくってしまったという【罪悪感】。
この世界は、
私たちのマインドがこれらの思いを投影してつくりだしている【幻想のお芝居】なのです。
ここから私たちの【分離劇】の上演は始まったのです。
この【分離劇】の役者は肉体の私たちです。
このお芝居の役者たちは、自分の意思で自由に動いているように信じていますが、実はそうではありません。
ちゃんと台本があるのです。
台本に沿って、動かされています。
では、誰が動かしているのかといえばそれは『神』ではありません。
私たちのマインドです。
私たちはマインドは、一人ひとり肉体ごとに個別に別れていると信じていますが、
個別に別れたマインドは存在しません。
『神』が創造したのは、
一つのスピリットであり、
そのスピリットの中に創った一つのマインドです。
そのマインドが【分離した】と思い込んだことで、
自分のマインドの中にいくつもの違った自分をつくりだしているだけです。
本当は一人しかいないのです。
一つのマインドの中に、
一つであることを知っている部分と、
バラバラの個人だと誤解している部分とがあるだけです。
本当は体の中にマインドがあるわけではないんです。
マインドが「自分は体の中にいる」という夢を見ているだけなのです。
肉体の私たちは、
たった一つのマインドがつくりだしている操り人形のようなものです。
でも、私たちは操られている肉体であると同時に、操っている側のマインドでもあります。
肉体の私たちはそれを忘れてしまっていますが……。
【分離】を信じて、
自分のことを多重人格のように二つに分けて、
一方で自分を傷つけた『神』をイメージした人物を演じ、
もう一方を『神』に傷つけられた自分として演じさせています。
さらに、私たちは『神』を裏切っているという罪悪感を強くもっています。
私たちの多くが、
「生まれながらに罪を背負っている」という感覚に陥りがちなのはこのためです。
『神』に「自分のことを罰してほしい」という願望を潜在的にもっていると、
自分で自分を罰するように(傷つけるように)なります。
自傷行為がやめられない人などは、その典型的な例です。
自分を罰したい(傷つけたい)という願望を無意識に否定してしまう人は、二通りのパターンに分かれます。
一つは、自分のことを罰してくれる人(傷つけてくれる人)を引き寄せるようになります。
もう一つは、自分の代わりに罰せられる人(傷つけさせてくれる人)を引き寄せるようになります。
「自分を罰したい(傷つけられたい)」と、
「誰かを罰したい(傷つけたい)」という思いは正反対のようで実は同じです。
その関係性をつくりだしているのは、たった一つのマインドだからです。
この一つのマインドが操っている二体の人形は、お互いの役割を交代しながら、くり返し同じ芝居を演じています。
現世で、
あるいは過去世から現世を通して、
あるいは現世から来世を通して、
【傷つける側】と【傷つけられる側】とを、交互に役割を変えながら演じ続けているのです。
しかし、肉体の私たちはその自覚はまったくありません。
この悪循環を、
この負の連鎖を止めるには、
望まぬ出来事の連鎖を止める方法と同じく、
「相手をゆるす」 「自分をゆるす」しかありません。
『いじめられた人なら、いじめた相手をゆるす』と同時に
『いじめられてしまった自分自身のこともゆるす』
いじめた側の人ならば、『いじめてしまった自分自身をゆるす』
いじめる人は、【罪悪感】がないから平気で人を傷つけるのだと考えてしまいますが、本当は全く正反対です。
マインドの深いところで『神』への【罪悪感】をもっているからこそ、
自分が「これは罪悪だ」と信じることをしてしまうのです。
マインドの【罪悪感】が強ければ強いほど、より残酷なことを相手にしたり、
または相手にされるようになります。
本当に【罪悪感】をもたない人は、
自分のことも、他人のことも、傷つけたいとは思いません。
本当に【罪悪感】がなかったら、自分を傷つける人を引き寄せることはしません。
いじめる側は、相手を傷つけると一時的に快楽を感じることはありますが、すぐに自己嫌悪に襲われます。
本当は相手と自分は一つの存在ですから、本能的に嫌な感覚になるのです。
その嫌な感覚をごまかすために、さらに相手を傷つけていきます。
この嫌な感覚は、自分の中からやってくるのではなく、
自分の外側、つまり相手が原因だと思い込もうとします。
もともと傷つけたい相手は自分なのです。
そんな願望が自分の中にあるとは信じたくないので、それをごまかすために他人を傷つけていくのです。
お互いに共通しているのは、
どちらも『自分を愛せない』ことです。
自分は愛される資格のない存在だと信じているのです。
なぜ自分を愛せないのか……
『神』を裏切ったという罪悪感、
『神』に捨てられたという絶望感があるからです。
私たちがいちばん愛してほしい相手は『神』です。
私たちが他人に愛を求めるのは、『神』に愛されていないと信じているからです。
本当に自分は『神』から愛されていると感じているとき、人は不思議と他人に愛を求めなくなります。
愛を与えることが興味の中心になります。
『神』は「すべてをゆるしなさい」と呼びかけています。
肉体の私たちが「これは罪だ」と信じていることを『神』は一切見ていません。
『神』はそれを見ないようにしているのではなく、神にはそれらが何も見えていないのです。
なぜ見えていないと思いますか?
それは、この世界は『神』がつくっていないからです。
神がつくっていないから、
この世界は【実在していない幻想】だと知っているからです。
『神』は実在の存在です。
実在の存在だから、自らと同じ実在のものしか創造しません。
『神』は、肉体の私たちがこの世界で物理的に何をしようと見ていません。
私たちのことは無条件で愛し、見守っていますが、
私たちがこの世界でしていることには関知しないのです。
だって幻想ですから。
悪夢を見て、うなされている子供がいます。
悪夢を見て、涙を流している子供がいます。
夢の中で「誰かに傷つけられた」と泣いているのかもしれません。
夢の中で「誰かを傷つけてしまった」と泣いているのかもしれません。
そのとき、それに気づいた母親はどうするでしょう?
「大丈夫。あなたが見ているものは全部夢ですよ」
「あなたはこれまで一度も誰かに傷つけられたことはありません。誰かを傷つけたこともありません」
「だから安心して目を覚ましなさい」
こう言うのではないでしょうか。
他の誰かなんて存在しません。
『神』とあなた、ただそれだけです。
夢の中で起きた出来事がゆるせないから、夢から覚めずにいるのです。
夢の中で出会った人がゆるせないから、夢から覚めずにいるのです。
夢の中で自分がしたことがゆるせないから、夢から覚めずにいるのです。
結局、ゆるすこと以外に、この負の連鎖を終わらすことはできないのです。
次回は、僕の子供時代の経験をお話しします。
僕は、人をいじめた経験、いじめられた経験の両方があります。
その経験をふまえて、具体的にどうやってゆるしていくのかをお話ししたいと思います。